蔵書 (三木 清)

女の人に云わせると、我々が本を欲しがるのは女が着物を欲しがるのと同じことだと云う。そこには確かに同じような心理がある。正直に云って、それは争われない。我々はいつも目的があって本を買うのではない、見ればただ欲しくなるのである。しかし女の人の着物の場合と違うのは、我々には古本に対する興味があるということである。いくら着物が好きだからといって、古着屋を漁り歩く女の人はまずないであろう。ところが蔵書家で古本漁りをしない者は稀である。つまり蔵書家には皆多少とも骨董趣味がある。骨董趣味が老人めいたものであるとすれば、着物を欲しがるのは特に若い女であるのと違っている。

骨董趣味が高じると、絶版物を絶版物であるという理由で、初版物を初版物であるという理由で、蒐集するといった趣味が出てくる。しかし私にはこの趣味が分らない。まだ若い証拠であるかも知れないと思う。今買っておいた本が十年二十年の後には絶版物となり初版物となるのだと思って安心しているわけである。

私の知っているところでは外国の学者には二通りあって、図書館の本を利用して自分では余り持っていない人がある一方、羨しいような蔵書家がある。しかるに本屋の話に依ると、日本ではよく本を読む人はよく本を買う人であるという。これは日本の図書館が不完全で、また不便であるということに基くのであろうが、そんなところにも日本の文化の若さが現われているように考えられるのである。

この頃私はなるべく叢書物を揃えることにしている。全集物を揃えている人が多いが、それに比して叢書物は予約出版ででもない限り揃えようとする人が日本には少いのではないかと思う。しかし私は叢書物の有難さをつくづく感じている。それは百科全書の代りを百科全書以上にしてくれるからである。信用のできる学者が責任をもって叢書物を編輯するということがもっと盛んになって欲しい。

(一九三八年一〇月)

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