Τηδε Σάων, ο Δίκωνος, Ακάνθιος ιερόν ύπνον κοιμάται. θνήσκειν μή λέγε τους αγαθούς.
洋子よ、お前にはまだこの文章が読めないだろう。しかしやがて、お前はきっとこれを読んでくれるに違いない。その時のために父は今この文章を書いておこうと思う。
母がなくなったのは、お前の七歳の時だ。幼くして母と別れるということがどんなに不幸なことであるかは、私の想像に余ることだ。私の母、つまりお前の見たことのないお前の父方の祖母が亡くなったのは大正十五年六月三十日であって、私の三十歳の時であった。今この文章を書きながら初めて気付いたことであるが、六月三十日と云えば、ちょうど喜美子の誕生日に当たっている。お前の父と母との縁には何か深い約束があったのであろう。亡くなった私の母が喜美子を私の所へ遣わしてくれたような気さえするのだ。私の母の最後の日の朝、私は京都で──その前年私は洋行から帰り、第三高等学校の講師をしていた──電報を受け取り、あわてて郷里へ行ってみると、母はもう意識不明になっていたが、叔母が私の着いたことを知らせると、母は俄に意識を回復したかのように私の方に向き直り手を伸ばして一声大きく唸り、やがて静かな、永遠の眠りに入ったのである。親子の間の感動というものは深いものだ。
お前の母が死の床にあった時、お前は伊勢の祖母の許にいたが、いよいよ絶望的だというのでお前を呼び寄せることになり、お前は祖母に連れられて夜行で東京へ帰ってきた。昭和十一年八月六日のことである。祖母の話によれば、前夜お前は非常な元気で汽車に乗ったのであったが、この日の朝六時過ぎ、お前は突然顔面全く蒼白になって祖母をひどく驚かせたということである。ちょうどその時分、母の魂はこの世を去ったのではないかと思う。前の晩母は看護婦に向かい、私は西国へ行くのだし洋子は東へ来るのだから途中で会うはずだと云っていたそうである。親子の間の感動というものはとにかく深いものである。
洋子よ、お前は感覚の鋭い子供のように思う。二、三歳の時、母のかけた蓄音機を聴き、何か悲しい曲になると、お前はきっと啜り泣いた。また母がお前を抱いて子守唄を歌い始めると、お前はきまって啜り泣いた、それがいかにも悲しそうであった。我が国の子守唄の多くがもっているあの哀調がお前の心を痛めたのであろう。そんなに敏感なお前は、母が亡くなってから、努めて母のことに触れるのを避けているらしく見える。これは母が買ってくれた物、ここは母と一緒に来た所と、お前が答えるであろうと思うような問いを出すと、お前は寂しそうな顔をして、答えを避けてしまうのだ。そのくせお前は、これは父が買ってきた物、ここは父に連れられてきた所と、よく云っているのに。子供にしてはあまりによく行き届いたお前の心を考えると、父は泣けて仕方がないことがある。お前はあれ以来ただの一度も母のことを父に向かって云ったことがない。お前はなにもかもすっかり諦めているのだ。世間で謂う幸福というものを最初から諦めてかかって人生に対するという態度、それをお前は父の性格から、そしてまた母の気質から、すでに伝えられているようである。それにしても、お前の頭から母の記憶がおそらく全く消え失せてしまうほど年月が経った時、お前はきっと母のことを知り得る限り細大となく知りたがるに相違ない。その時に至って父は今編纂されたこの書をお前に示そうと思う。
私が喜美子に初めて会ったのは昭和二年六月の末のことであったと記憶する。父はその前年東京へ移って法政大学の教授と日本大学及び大正大学の講師とをしていた。私達の結婚の話は少し前から人を介して行われていたが、会ったのはその時が初めてで、喜美子は母と一緒に上京し、私は岩波茂雄氏に連れられて確か鍛冶町の東郷館とかいう宿に訪ねた。その夜私達二人は有楽町辺を散歩した。喜美子は一体に無口な性質であったが、その時も私から彼女が行っていたという東洋大学の様子などを尋ねたのに対して簡単に答えるのみで、彼女の方からは何も話を持ち出さなかった。その翌々日だったか、岩波氏が来られ、私に結婚の意志があるかと問われたので、私は、「結婚しても好いが、私の将来には世間で普通に考えるような立身出世は望めないかもしれない、むしろ特殊な運命が私を待っているように思うが、それを承知の上でよろしければ」、という意味のことを答えた。こうして私達の間には交際が始まった。
その頃郷里で暮らしていた喜美子と私との間には文通が行われたが、正式に婚約したのは翌年三月のことであった。アメリカから帰って、また程なくヨーロッパへ行くという精一さんが二月の末に訪ねて来られてその話が決まった。のち喜美子は上京の度ごとに、私が東京へ出て以来結婚生活に入るまでずっと住んでいた本郷菊坂の菊富士ホテルに訪ねてくれた。喜美子へ来た手紙はほとんど残っていないが、この時代に私がやったものだけは特別の封筒に入れて残されている。今それを読みかえしてみても、当時私がいかに慌しい生活をしていたかが分かる。この年の夏私は満鉄の招聘で満州の各地を講演して廻っており、また年の暮から正月へかけて岩波氏のお供をして北支那へ旅行している。
この慌しい生活の継続の中で、私達は昭和四年四月五日、那須皓博士御夫妻の媒酌により結婚した。喜美子二十六歳の時である。私は七つ年長で三十三歳であったが、それ以後の結婚生活七ケ年、喜美子が三十三歳を一期として逝ったということにも、何か因縁があるのであろうか。私達の結婚式は淋しいものであった。その頃私は儀式的なことにはおよそ興味がなく、もし賑やかにやるのなら銀婚式か金婚式の時でたくさんだとくらいに考えていた。かような乱暴なことを許してくれた東畑一家に対して今私はまことに済まなく思っている。そしてまた、こんなに早くこの世の別れをしなければならないのであったのなら、あの時はもっと盛大にやっておくのだったと後悔もされるのである。とにかくあの頃私は忙しい、全く乱暴に忙しい生活をしていた。学校の講義だけでもかなりな時間数であったが、講演会、座談会等には始終引き出されるし、雑誌等の執筆も絶えなかった。またあの頃は特に来客が多く、喜美子が、「まるで女給になってきたようだ」と話したことがある。世間的に有名になるということがどんなにつまらないことであるかを彼女はすでに悟っているもののようであった。喜美子は何事につけても地味なことが好きであった。私自身もとより決して華やかなことが好きなわけではなかったが、あの頃は若さの元気一杯で、忙しければもっと忙しくしてやろうといったような、運命への挑戦において自分の力を信じようとする気持ちがあった。彼女に対して恥ずかしいことであったと思う。
翌年の春私達は中野警察署裏に引っ越したが、そこには思いがけない事件が待っていた。大河内正敏子爵の令息信威君に頼まれて出した金が日本共産党の運動資金であったと云うので、治安維持法違反の嫌疑により私は検挙された。五月二十日早朝のことである。数日後一旦釈放されたが、七月末になってついに起訴され、それから十一月中頃まで私は豊多摩刑務所の未決監で日を送った。十月八日、父の留守中に、洋子よ、お前は中野宮園町の山田病院の一室で生まれたのだ。お前の誕生の日の不幸を考えると、父はお前をできるだけ幸福に育ててやる義務を強く感じさせられる。この不慮の事件に対してお前の母の態度は想像以上にいつも落ち着いていて、実に立派であった。私はその時ほんとに信頼することのできる妻を見出したのである。彼女はあの年頃でもう人生のあらゆることに対して準備されていた。そしてそれが真の教養というものである。この事件は結局執行猶予になったが、私は学校をやめてしまい、家に引っ込んで仕事をすることになった。私はかような境遇の変化を気にしない性質であったが、彼女もそれを少しも不平がらず、むしろ私が騒々しい世間から書斎の人にかえるようになったことに満足しているようにさえ見えたのは、私にとってどんなに心強いことであったであろう。それから一年あまりの間私は雑誌などにもほとんど執筆しなかったが、その間に出来たのが『歴史哲学』である。他の原稿をほとんど書かなかったので生活は楽でなかったにもかかわらず、喜美子はよく辛抱し、よく私を理解してくれ、私の勉強を絶えず励ましてくれた。あの本が出来たのは全く彼女のおかげであって、それが出版された時、最も悦んでくれたのも彼女である。外的に見れば決して幸福ではなかったにしても、私達の生活には何となく落ち着きが生じ、そしてお前という子供も出来て、私達の家庭生活というものはその時以来ほんとに始まったと云えるであろう。沈黙の生活が最も充実した生活であるということを彼女は真に理解していた。
昭和七年の夏一家は熱海へ行ったが、旅館の生活は落ち着かないというので予定を早めて帰京し、そして転居の相談をして家を探し廻った末、ついに喜美子が阿佐ケ谷で見付けてきて、十月に引っ越した。この家は私達の気に入り、あの事件によって乱された生活も次第に安定し始めた。結婚後三ケ年、その間に経てきたさまざまな試煉はかえって互いの理解を深めることに役立ったのを感謝したい。昭和八年の一月一日から二十八日まで、喜美子の日記がある。彼女の日記として残っている唯一のものであるが、当時の私達の生活の一端を伝えている。例年日本評論社から貰う日記帖に書き付けてあって、欄外に「洋子の歌」というのが二つばかり記してある。これはお前が母に連れられて外へ出た時喋った言葉が自ら歌になっていると云って母が興味を持ち、書き残しておいたものである。ここに日記の全文を録してみよう。お前の四歳の時のことだ。
一月一日 快晴 二日 曇 三日 晴
酉年(主人)の新春を迎える。
井上の父上六十一歳、本年は還暦にあたる。母上五十九歳。
午後女中ハルを牛込の小父さんの所へつかわす。
夕刻山路の健、高円寺精一兄来訪あり、夕食を共にす。洋子へきれいな羽子板頂く。
欄外には主人三十七歳、きみ子三十歳、洋子四歳(昭和五年十月八日)とあり、そして洋子の歌として、
一月二日 夕方
ポチや見てごらん
パン月さんが出てるわよ
パン月さんが出てるわよ
泣かないでおきなさい。
一月四日 晴
午後渡部良吉、小口優、高井篤氏来訪。高井氏と夕飯を共にす。小山二郎氏より国産林檎頂く、味よし。
一月五日 曇
真三さん来る。結婚式十三日に決定。
一月六日 小雨、雪まじる、小寒
今日は朝より一入寒い。雪を見て洋子喜ぶ。
主人午後青楓氏訪問。夜岩波日本文学講座の原稿校了となる。
公私共来客繁ければ面会は火曜日と定め、玄関にはり出す。
一月七日 晴
青楓氏より頂ける蘭に漢詩の小画表装出来上り、書斎にかかげる。夜間坂口氏遊びに来る。真三さん帰る。
午後高円寺の由紀子、女中ふさと共に来る。洋子に初めて長靴を買ってやったら、大へん喜んで珍らしく歩いて帰る。「早く帰ってパパにお見せしましょうよ」と喜ぶ。
そして欄外に、
一月七日、由紀ちゃんを駅に送りて帰り道に
お月さん今晩は
お嬢さんと一緒に歩いてくる
(道を曲った)
又ばあーと出たよ
一月八日 晴
昼前、主人、洋子と共に新宿へ行く。大へんな人出にて混雑。精養軒にて支度す。洋子、ミルク、パン、オムレツ、大へん喜ぶ。往復共にパパに抱っこして大機嫌なり。之から月に一度位、洋子のため両親がつれ出してやる事。
一月九日
午後みね子姉上、由紀ちゃん来訪、真三さん結婚祝として金一封を頂く。生田勉氏よりコーヒー茶碗半ダース到来。
夜勝原夫人山崎老人をつれて来訪。喜与子様風邪にて結婚式変更の件承認。
一月十日(火) 晴、暖
午前高円寺へ行く、真三さん結婚延期の件願う。
繁さん帰宅。
小林勇氏朝より来る、酒肴を出す。夜間岸本氏来訪。
一月十一日(水) 小雨
洋子早朝より腹痛にてむづがる。十時、うすきパン二片、一時、牛乳一合、うすきパン一斤。夕食、やわらかきかゆ三碗。今日は一日守にかかり果す。夜は早くより就寝。
珍らしく村上あい子より来信あり。
一月十二日 晴
久しぶりにて那須先生を世田ケ谷に訪ねる。奥様、子供さんは病院通いにて不在。
帰りに渋谷の姉上訪問、御馳走になる。
一月十四日(土) 晴
午前十時、新宿駅に山路東畑両姉上と出会い、父上還暦の祝物を求めに日本橋に趣く。子供十一人協同にて「うすに雀」の置物、孫八人一同として、しぼり羽二重かけぶとん一枚贈る。
帰りに三越、銀座を久しぶりにてぶらつく。五時帰宅。
欄外に、置物四十三円余、ふとん十五円、とあり。
一月十五日(日) 快晴
朝から気持よく晴れ、少し風はあるが家の中はずい分暖たか。
山下氏来訪、ハイマートへ招待をうける。あまり屡々なれば洋子をつれ晩食を御馳走になる。
一月十六日(月) 曇
夜桝田啓三郎氏来訪、真綿一箱、鮎十尾、お土産として頂く。日本文学出来。原稿料三百余円入手。
一月十七日 雪
山下氏よりの依頼により早朝家を出て三越にて贈物をととのえ、神田岩波書店へ行き用件を調べて頂く。正午山下氏を訪問し用を果す。外はみぞれ、ずい分寒い一日であった。
一月十九日
夕刻ホリタヤ暮に註文せる真珠指環をもって来る。かなりの品にて、かっこうよろしい。
井上より父上還暦内祝として魚斎をへて松魚節一箱贈らる。
一月二十二日(日曜)
早朝より降雪あり、八寸余つもる。
一月二十六日(旧正月元日)
真三さん結婚式挙行。
一月二十八日 快晴
寒気甚し、水道凍る。
勝原氏宅へ謝礼に趣く、帰りに山路姉上訪問。
洋子よ、母はお前の教育にはずい分熱心であった。ピアノの教師も自分で探してきてお前に習わせたのだが、稽古に対してはいつも厳格であった。お前が小学校へ上がるのを何よりも楽しみにして、一、二年も前から学校のことを心配していたのであるが、ついにその日を待たずしてこの世を去った。最後の病床にありながらも母は何一つ愚痴を云わなかったが、いよいよ死の近づいたのを覚った時、「もう一度洋子のピアノが聴きたい」と、ただそれだけ云った一言が今なお私の耳について離れない。心の中ではどんなに寂しかったことであろう。
親子三人が外で一緒に最も長い間暮らしたのは昭和十年の夏である。五月の末、私の書物『アリストテレス形而上学』が出来て少しひまになったので、私達は避暑地の下検分の意味を含めて富士山麓山中湖へ行き、そこでひと夏家を借りる約束をした。ホテルに一泊した翌日、法政大学の卒業生が訪ねて来て私は一緒に箱根へ廻り、お前達は中央線で帰った。そして七月の二十日過ぎから私達は山中へ行った。平生は家にいても私はほとんど書斎で暮らしていたので、三人がほんとに膝をまじえて生活したのはあの時であった。毎日ボートに乗ったり、林の間を散歩して草花を採ったりした。ある日、お前は家主の小父さんに負われ、私達は草鞋を穿いて大出山というのに登ったが、帰り道にひどい夕立に降られて皆ずぶ濡れになり、雷を恐れながら山を降りたことがあったのも、今は楽しい思い出である。天気の悪い日は薄寒く、炉辺で薪を焚いて終日談笑した。家主の小父さんはずい分話好きであった。
山中湖から帰って間もなく、精一さんから今の高円寺の家に住まないかという話があって、引っ越すことになった。この家は喜美子が学生時代に精一兄さんと一緒に住んでいた家であり、またそこから私の所へ嫁入って来た家であって、彼女にとっては関係の深い家であったが、引っ越した翌年ついにその家で葬式をされることになったというのも、何かの因縁であろうか。人間はいずれは帰るべき所へ帰るのだ。とにかく思い出のある家であり、作りも東京の普通の家のようにせせこましくなく、また庭も広かったので、喜美子はことに喜んだ。その秋関西から訪ねて来た私のある友人夫婦は、「この家はお寺のような感じがする」と云い、この頃のモダンな若い人には実際そう感じられるのかもしれないが、今にして思えば、彼等がそう云ったお寺のような家に私達は初めて仏壇を作り、新仏を拝することになったのである。自分達の家が出来たというので、喜美子は喜んで花壇を作りかえて草花を作り、あるいは野菜を栽培し、私は私で木を植え込み、草むしりや庭の掃除を日課のようにした。
昭和十一年、すでに春の終わりからこの夏はどこへ行こうかという相談をして、結局鳥羽に行こうということに決まった。井上へも寄り、また私はかねて誘われていた紀州の速水君の所を訪ねるつもりであった。やがて出発の日も八月一日と定められた。母はその日の近づくと共に買物を調え、また留守番には女中律子の伯母さんを頼むことにして承知してもらった。こうして用意もたいていできていよいよ出発の日も迫った七月二十七日の午後、母は突然発病した。中野の精一さんとも相談の結果、山田病院へ入院したのは夜半の十二時であった。翌日の午後四時頃手術を行った。この夏は何年振りかの暑さだと云われ、母の入院後はことに暑かった。八月に入ってから容態が心配になってきて、伊勢の祖父上にも上京して戴き、また四郎さんの血を貰って輸血もしたが、ついに八月六日午前七時、お前が祖母に連れられて停車場から病院にかけつけると間もなく母は息をひきとったのである。母がお前を産んだという室の真向かいの室であった。すでに二、三日前から彼女は死を予感していたのであろう、病室へ入った時、静かに瞑目して両手を合わせ心の中で念仏を唱えているらしい母を見かけて驚いたことがある。彼女の入院後間もなく私は築地本願寺の工藤義修氏の訪問を受け、講演を依頼されたのであったが、その工藤氏から戒名を付けて戴き、また氏を導師として葬儀を営むことになったというのにも、何かの因縁があるように思われる。彼女の死以来私は因縁というものについて深く考えるようになった。彼女は病床において「お祖母さんが迎えに来る」と時々云ったそうであるが、そのお祖母さんの命日に彼女はこの世を去ったのである。仏教の言葉に倶会一処という、私達はやがては一つのところで倶に会することになるのだ。
田辺繁子さんへの手紙を見ると、母がすでに学生時代に孤独とか死とか運命とかについて深く考えていたことが分かる。母の書いたもので私の手許に残っているのは少なく、日頃からよく物を整理しておいてあったのであるが、その中にただ一つ彼女が学生時代にたぶん英作文の練習のために書いたらしい英文の悔み文が大切に残されているのも、不思議である。日付は一九二四年二月二十五日となっている。文中に彼女はKeatsの次の詩句を引いている。
Shed no tear ─ O shed no tear!
The flower will bloom another year.
Weep no more ─ O weep no more!
Young buds sleep in the root’s white core.
Dry your eyes ─ O dry your eyes,
For I was taught in Paradise
To ease my breast of melodies ─
Shed no tear.
Overhead ─look overhead
‘Mong the blossoms white and red ─
Look up, look up ─ I flutter now
On this flush pomegranate bough ─
See me ─ ‘tis this silvery bill
Ever cures the good man’s ill ─
Shed no tear ─ O shed no tear!
The flower will bloom another year.
Adieu ─ Adieu ─ I fly, adieu,
I vanish in the heaven’s blue ─
Adieu, Adieu!
そしてこの文は「かような限りない悲しみにおいて我々を慰めるものは、我々が我々の愛しそして失った者に天なる我々の父の許において再び会う日がそんなに遠くないということである」という意味の言葉をもって結ばれている。
母は私達の婚約の頃田辺さんへ宛てた手紙の中で、「かなり特異な性格者ですので私の一生は運命を共にする上に多難をまぬかれぬ事と思います」と書いているが、父が特異な性格の人間であり、また二人の生活が多難なものであろうと知りながら、父と一緒になった母を私は悲しく思うと共に、母自身も同じ意味で特異な性格の人間であったと思う。女性であってともかく大学程度まで哲学をやるということがすでに稀なことである。父は世間のいわゆる幸福というものをあまり信じていないのであるが、母もまたそうであったのではないかと考える。プラトンのシュムポシオンの中で、ソクラテスは、真の悲劇家はまた真の喜劇家である、と教えている。母はこの世の不幸に対して心を乱さないでいることができた、彼女はむしろ寂しさのうちに人生の真実を味わうとしていたとも云える、彼女は悲劇家であったのである。母は知的な人間でもあったが、その底にどんなに深い感情を持っていたかを父は知っている。しかも彼女の生活の仕方ははなはだ平凡であった。あんなに学問の好きな彼女ではあったが、結婚後は家事に専心し、それで満足していたようであった。しかしその平凡な生活の仕方は彼女においてはいわば悲劇を知れる者の喜劇の意味があったであろう。悲しみを見詰めた者には心の落ち着きがある。彼女は死の直前に、看護に行っていた女中に向かい、「お母さんが来たら、私は幸福であったと伝えてくれ」と云ったそうである。彼女に対してつねに温かい理解を、いな尊敬をさえ持っている父母兄弟が彼女の周囲にあったということは彼女にとって確かに幸福なことであったに相違ない。私達の結婚生活がはたして幸福なものであったと云い得るかどうかに至っては、知らない。しかし私達二人は共々に、どんな不幸な場合においてもかなり平気でいることのできる喜劇家であると云っても云い過ぎではないであろう。彼女も無口であったが、私も家庭ではあまり口を利かない。彼女にやさしい言葉をかけたこともほとんどなかったが、今彼女に先立たれてみると、私はやはり彼女を愛していたのだということをしみじみと感じるのである。
彼女の一生は、短いと云えば短いと云えるし、また長いと云えば長いと云うこともできるであろう。彼女の一生はまことに弛みのないものであった。そして死んでゆく時には彼女はほとんど人間的完成に達していたと信じる。人々の心に自分の若い美しい像を最後として刻み付けてこの世を去ったのは彼女が神に特別に愛されているからであろう。私としては心残りも多いが、特に彼女の存命中に彼女に対して誇り得るような仕事のできなかったことは遺憾である。私が何か立派な著述をすることを願って多くのものをそのために犠牲にして顧みなかった彼女のために、私は今後私に残された生涯において能う限りの仕事をしたいものだ。そしてそれを土産にして、待たせたね、と云って、彼女の後を追うことにしたいと思う。