一〇
よき生活とはいかなるものかという私が提出しておいた第三の問題が非常に複雑であることは、一般に生活というものがいかに複雑であるかを、ちょっとでも反省してみる人の誰でもが、容易に考え及ぶことができることであろう。時処位に従って種々雑多に変化すべき具体的な生活をそのまま記述し分析し説明しようというのは全く不可能なことであり、またたとい可能であるにしても無意味なことである。私がここに試みようとするところのものが、かくのごときものでないことは明らかである。私はいま私がよき生活として想像する生活からそれの指導観念の特に重要なものを抽象して来て、それらについて思考を廻らすことによって私が正当にとるべき生活態度を明瞭にしたいと思う。
まず最初に注意すべきことは、私たちの生活において大切なのは、「何を」経験するかということよりも「いかに」経験するかということであるということである。なんとなれば、経験の内容とよばるるもの自身がすでに、多くの人によって誤解されておるように、固定して動かすことができないように存在しておるものではなく、これを経験する魂によって創造されるものであるからである。外面的にみて同一の事柄もこれを経験する人の心に迫る形においては種々に異なっておるのである。同一の芸術作品の前に立って観照し評価する二人の人は根本的には同一の芸術作品を観照しまたそれについて評価しておるのではない。観照はやがて制作である。大家の秘密は形式によって内容を滅却するにあるとシルレルがいったように、秀れた魂はいかに瑣細に見える事柄にも深い意味を見出すふしぎな力をもっておる。これに反して鈍い心の所有者はどんなに大きな経験に遭逢してもこれを浸透して輝く光をもっていないから、それは彼にとって何の価値もない黒い塊に過ぎない。
私はかつてニュートンの言葉から思い出して人生を砂浜にあって貝を拾うことに譬えた。凡ての人は銘々に与えられた小さい籠を持ちながら一生懸命に貝を拾ってその中へ投げ込んでいる。その中のある者は無意識的に拾い上げ、ある者は意識的に選びつつ拾い上げる。ある者は習慣的に無気力にはたらき、ある者は活快に活溌にはたらく。ある者は歌いながらある者は泣きながら、ある者は戯れるようにある者は真面目に集めておる。彼らが群れつつはたらいておる砂浜の彼方に限りもなく拡って大きな音を響かせている暗い海には、彼らのある者は気づいておるようであり、ある者は全く無頓著であるらしい。けれど彼らの持っておる籠が次第に満ちて来るのを感じたとき、もしくは籠の重みが意識されずにはおられないほどに達したとき、もしくは何かの機会が彼らを思い立たせずにはおかなかったとき、彼らは自分の籠の中を顧みて集めた貝の一々を気遣わしげに検べ始める。検べて行くに従って彼らは、彼らがかつて美しいものと思って拾い上げたものが醜いものであり、輝いて感ぜられたものが光沢のないものであり、もしくは貝と思ったものがただの石であることを発見して、一つとして取るに足るもののないのに絶望する。しかしもうそのときには彼らの傍に横たわり拡っていた海が、破壊的な大波をもって襲い寄せて彼らをひとたまりもなく深い闇の中に浚って行くときは来ておるのである。ただ永遠なるものと一時的なるものとを確に区別する秀れた魂を持っている人のみは、一瞬の時をもってしても永遠の光輝ある貝を見出して拾い上げることができて、彼自ら永遠の世界にまで高められることができるのである。私たちはこの広い砂浜を社会と呼び、小さい籠を寿命と呼び、大きな海を運命と呼び、強い波を死と呼び慣わしておる。かようにして私たちには多くの経験よりも深い体験がさらにいっそう価値あるものであることは明らかである。
もちろん私が経験する魂の方面のみを考えて経験される事柄を全く看却するというのであるならば、私はあたかも美学上のいわゆる形式説が陥ったと同様な誤りに陥っていることは疑いもないことであろう。いかなる障礙にも負かされることなく、かえってその障礙を利用して自己を高めてゆくことを知っておる秀れた魂は、それが遭遇する経験が多く、強く、大きくあればあるほどますます磨き出されるに違いない。天才者たちは深い悲しみや苦しみを身に徹して味うことによって、彼らの魂を弥増に高めまた浄めるという事実を私も承認する。
Ein guter Mensch in seinem dunklen Drange
Ist sich des rechten Weges wohl bewusst.
(善い人間は、よしや暗黒な内の促に動かされていても、
始終正しい道を忘れてはいないものだ。)
(ゲーテ『ファウスト』第一部三二八―九 森林太郎訳)
けれどそれにもかかわらず私が上の思想を特に高調するゆえんは、多くの場合に誤解される次のような思想に対抗せんがためである。人々は自己の体験の深さと広さとを誇りつついう、「頭で考えられたことが何を知っておるか、凡てのものの本当の意味はそれを自ら体験した後に分ることだ。酒に狂ったことのない者、女に溺れたことのない者、それらの人の語る道徳に何の権威があるか。」いかにも彼らのいうとおりである。そして彼らの言葉はすべての悪を弁護し承認する贖罪的な言葉としての貴さをさえ持っておるように見える。しかし静かに考えてみるがいい、彼らの言葉の裏には――そして私自身がそうでなかったとは誰も保証のできないことだ。――自分自身の悪を自己の虚栄心や自負心やを損わないために、他人に対して弁解しようとする心が潜んでいないか。あるいは無暗に新しがったり、理由もなく古いものを排斥することそれ自身が非常に偉いことと考える思想が、彼らの言葉の間に隠れていないか。もしくは悪魔の誘惑に自らを強いて試みようという心、従って神を試みようという傲慢な心が、彼らの言葉の背後ではたらいてはいないか。私が思うに彼らの言葉はただへりくだる心においてなされた深き体験の発表としてのみ意味を有するものである。私が彼らと争おうというのは言葉そのものではなく、その後にはたらいている心情そのものに関してである。酒に狂い女に溺れることそのことを悉く排斥しようというのではない。ただそれらが好奇心や敵愾心や傲慢な心において経験される限り全く無意味であり、従って非難さるべきことであるというのである。「弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるはまた本願ぼこりとて往生かなふべからず。」といいあるいは「なにごとも、こゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもころすべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと、おほせのさふらひしは、われらがこゝろのよきをばよしとおもひ、あしきをばあしとおもひて、本願の不思議にてたすけたまふといふことを、しらざることをおほせのさふらひしなり。」という言葉、もしくは「父よ、若しみこゝろにかなはばこの杯を我より離し給へ、されど我が意のまゝをなすにあらず、唯みこゝろのまゝになしたまへ。」という言葉などに現われた絶対に謙虚な心のみがすべての体験を意味あらしめることができる。自己の罪悪を小賢しい智恵と言葉とを弄して弁解するよりも、人生の悪を身に徹して体験したトルストイが、晩年に性慾や結婚やを否定しあるいは額に汗して食うという主義を実行した心持の方がどれほど貴いものであろう。
第二に私の思想は単に外に拡りゆく心よりも内に向って掘り下げてゆく心が私たちには特に必要であるということを主張せんがために力説されるのである。好奇心や虚栄心から自己の経験と知識の領域とを無暗に拡げつつ限りなき運動と動揺とに心を委せて、それらの経験や知識の表面に触れて、それらを自己の魂まで持来して味わない人をジレッタントと呼ぶならば、私はかくのごときジレッタントを退ける。これに反して秀れた魂はどんな瑣末なことに関係してもその本質を体験することができる。それは私たちが無智から出た不注意と無頓着との間に投げ棄てておる事柄においても深い意味をしみじみと味うなおやかさを持っておる。世のいわゆるジレッタントは私に反対するときいつでも、レオナルド・ダ・ヴィンチやゲーテやを指摘するに違いない。いかにもダ・ヴィンチやゲーテなどは生活の広い領域を征服し体験していたに相違ないが、彼らの驚くべき魂は彼らが関係した悉くの領分において一々普通人よりも深い理解をもつことができたのである。彼らの偉大は広さのために深さを失わず、拡張のために充実をなくせず、普及のために熱中に欠けるようなことがなかったのである。私たちは彼らにおいて少くともいわゆるジレッタントに共通な性格の弱さを見出さない。自己の中心を見失った、魂の根強さと心の旺盛な活動とをもっていないジレッタントには、ゲーテが自己発展は自己保存であるといった言葉の正当な意味は理解されそうにもない。
また他の人々は気遣しげに問う、「一体大きな悪事を自分でなしたことがないものに悪の本当の意味は分っているであろうか。聖者たちの生活は罪の深い意味を見出すためにはあまりに清かったのではなかろうか。」けれど人生は完全としか思えない場合にも罪から全く自由になることができないほど悲しいもののように思われる。聖者たちの偉大なる魂は、私たちには最も正しく、美しく、よく見える生活の中からも罪と悪とを引出して感ぜずにはおられない深さと鋭さとをもっているように見える。それゆえに彼らの生活には私たちが感じ得る限りでは偸盗や姦淫がなくとも、彼らの魂の深さと鋭さとはそこに偸盗や姦淫を感じ出さずにはいられなかったのではなかろうか。
罪と悪、寂しみと悲しみ、それらは単に私たちが感じ得る人生の表面においてでばかりでなく、秀れた魂が到り得る人生の本然においてでさえ見出されずにはいられないもののようである。もしそうでないとすれば他力の信仰は畢竟空言でなければならぬ。しかのみならず、法律でさえ明かに罰するような大罪悪を実際に行った人でなければ真に罪の意識を得ることができず、従って大善人となることが絶対に不可能であるとするならば、人間は善であらんがために必然に悪をなさねばならないこととなり、しかしてその限り人間は決して完成に到達し得ないこととならなければならない。しかるにもし私たちに完成の可能が否定されねばならぬとすれば、私たちの善を求むるということ、一般に生活するということの意義が否定されねばならないと思う。私は現在の人生においては罪悪が避け難い運命であるという悲しい事実を安らかに認めるとともに、いつかは私たちの罪悪が悉く善にまで高められ、もしくは善によって抱擁されるという美しい希望をほのかに孚もうとする。
一一
よき生活を生きようとする人が最初に獲得しなくてはならぬものは素直な心である。そして素直な心の特質は謙虚と剛健とである。素直な心は何より第一に虚栄心と自負心とを退けつつ自己の正しき姿をへりくだる強さをもって眺めようとする。それの剛さはそこにいかなる醜さが展開されようとも少しも容赦することなく、それのへりくだりはそこに見出されるいかなる悪をも弁解しようなどとはしない。それゆえに真の懺悔は素直な心においてのみ可能である。それは自己の罪を正直に告白することによって、社会からばかりでなく愛する友だちや兄弟からまでも卑しめられ見離されようとも、自己の罪を大道で叫ばずにはいられない心である。それはパウロが「われは罪人の頭なり。」といった心を心とする。私たちのよき生活はかくのごとき素直な心の反省によって自己を正視して、すべての虚栄心と自負心とを棄てるところに本当に始るのである。かくて素直な心はジレッタンティズムとセンチメンタリズムとから区別されて必然的にそれらを排斥する。それはジレッタンティズムと異なってすべての経験を魂にまで持来して深く体験しようとする。またそれはセンチメンタリズムのような感情への惑溺と涙をもっての戯れとを知らない。ジレッタントが自己の才能の広さを矜り、センチメンタリストが自己の感情の鋭さを誇ろうとするとき、素直な心の所有者は只管に自己の心の純粋がアフェクテイション(気取り)によって失われざらんことを恐れる。
けれどどこにでも罪を感じ出さずにはいられない素直な心はまたやがて永遠なるもの、偉大なるものに驚き得る心、従ってそれらのものに対して信仰を有し得る心である。何物にも驚き得ない心は、私には単に貧しいものとして感ぜられるばかりでなく、むしろ非常に恐しいもののように思われる。何物にも驚き得ざる魂こそ私には本当の悪魔のように感じられる。そして驚く心こそ信仰の母である。素直な心はまたそれの永遠なるもの、偉大なるものに対する憧れと愛との無邪気と純粋とにおいて、美しき夢を夢みずにはいられない。けだし愛と純粋とはいかなる場合でも夢を生み出さずにはおかず、またその夢に酔わせずにはおかないものであるからである。あまりに懐疑的であり病的であるいわゆる近代人は偉大なるもの、健康なるものへの驚きを失い、従ってそれらへの愛と信仰とをなくしておる。彼らは偉大なるものよりも平凡なるもの、健康なるものよりも病的なるもの、古典的なるものよりも特性的なるもの、深きものよりも鋭きものにより多くの興味と関心とを見出す。彼らは無邪気な心をもってものをそのまま受け容れて味うことができないで、猜疑の眼を見張って一切のものを分析し批評する。彼らは一冊の書物を読むとき何がその中で永遠なるものであり、また何が自己の魂を高めることに利益し得るかを知ることを顧みないで、その内容についていかなる点が自己の能力をもって指摘し批難し得る欠点であるかを見出すことに興味と努力とを向けておるのである。彼らは深く体得することよりも鋭く批評することを喜ぶ。彼らは一篇の論文を草する場合に何を本当に自己の心で深く体験したかを発表しようとするよりも、何を自己の頭脳で鋭く指摘し得るかを誇示しようとする。(懐疑する心が何故に傲慢であるかは正当には分らないことだ。)すなわち彼らは深き心よりも鋭き頭を欲する。また彼らは一人の人に接するとき、殊に偉大なる人に対するときにそうであるが、その人において何が長所であり何が自己の魂の高揚に貢献し得るかを正しく感じ出すことをおいて、まず何がその人にあって批難さるべき短所であるかに注意しようとする。彼らは博大な心をもって人を抱擁しようとはせず、猜疑の心をもって人を排斥しようとする。しかし根本的によくないことは、彼らがかくのごとく振舞うことが、彼ら自身絶えず不安と焦躁とを経験せずにはいられないのであるのに、それだけで非常に新しい従って彼らの評価に従えば非常に豪いことのように考えて思い上っているということである。一言にしていえば彼らの心は拗ねている。
けれど私たちが伸びやかな心を回復すべき時は来た。私たちの心では驚きと愛と夢とが純粋にそして健康に育たなければならない。番犬のような吠えつく心、刑事のような探る心、掏摸のような狡い心を棄ててしまって、嬰児のような無邪気で快活な心に還ることが私たちには絶対に必要である。そのとき私たちは偉大なるものに対する尊敬と憧憬とをもたずにはいられないであろう。そのとき私たちは他人に信頼する心を懐かずにはいられないだろう。そしてかような気持を本当に回復することができたときに私たちの生活は伸びやかであり、快活であり、また希望に輝くであろう。私は近頃特に痛切にそう感ぜずにはいられない。社会の人々がもっと正直で無邪気になっておのおの美しい夢に酔うことができたならば、私たちの社会はどれほど改善されるであろうかと。私には夢のない生活ほどつまらなく感ぜられるものはない。私は殊に多くギリシア人について好んで語った。私は何故に彼らに懐しさと親しみとを感ずるか。けだし「ギリシア人はあらゆる民族の中で生の夢を最も美しく夢みた」からである。無智や無頓着や屈従や諦めや投遣から現実をそのままに受容れることをやめて、少しでも自分自身や社会をよくしようという希望と努力とがすべての人に生れてくるときに、初めて私たちは本当に人類の愛と平和とを贏え始めるのである。
私たちは地上に執着してばかりいないで天上を仰ぐかまたは地下を見透すかをしなければならない。美しい青空には永遠なるものが輝いてそれへの憧れは私たちを夢みさせずにはいないだろう。暗い闇の中にも私たちは永劫の光あるものにぶっつかってそれへの愛は私たちをまた夢みさせずにはおかないだろう。前者を私はイデアリストと呼び、後者を私はフマニストと名づける。前者はこの世のものを超越した永遠なるものを憧れ求めようとし、後者は醜悪なる人間性の中に宿る神性を見出そうという。もしまた誤解を招きやすい言葉をあえて用いるならば、前者の態度を貴族主義、後者の態度を民衆主義とも呼ぶことができるかも知れない。私は、いやしくもよき生活を生きんとするものは必ずイデアリストかフマニストかのいずれかでなければならないと思う。しかして彼らの生活態度に共通なものの多くの中で、私はいま特に空間的生活という特徴をみて私自身の徒に拡りゆかんとする心を警しめたい。彼らの一人は天上を仰ぎ憧がれ、他の一人は地下に掘り入って求める。それゆえに彼らの精神の活動の領域は単に拡りと幅とをのみもっておる平面ではなく、深さをもったところの空間である。かくして健康な魂の空間における旺盛な活動によき生活はそれの本質を見出すのである。
夢や憧れや信仰について多くを語った私は、ここにかつて非常な勢いで破壊された偶像を再興しようとしておるもののごとくに思われるであろう。なるほど、私は偶像を再興しようとしている。しかしながら私の偶像は、伝統や権威やに屈従する心が無意識的にもしくは恐れ戦きつつ建ててそれに自らを支配させようとするような種類のものでなく、素直な心が夢みつつ創造して自由な心からそれに自らを委せようとするような類のものである。それは自己の外に建てられるようなものではなくて、自己の魂の堂奥に建てられるものである。それは固定した形式をもったものでなく自由に成長してゆく生きた偶像である。
いうまでもなく謙虚にして剛健な心は、本質的に自由を求める。素直な心はあらゆる先入主見を一々自己の奥底へまで持来して吟味せずにはおかない正直さをもっている。利口な人、世故に長けた人とふつう称讃されておる人たちを見るに、彼らは自ら少しの反省をなすこともなしに、人間はこんなもの、社会はこんなもの、女はこんなものなどと勝手に決めてしまい、そしてそれに協った幾つかの規矩準縄を作って只管にそれを実行しようとしておる。彼らの生活は要領のいいものであるが生命力がない、整っているが魂が欠けている、滑らかだが深みがない。しかも彼らは彼らの生活が当前の生活だと無造作に考えて、もし彼ら以外の生活を生きようとする人があればふしぎに感じながら嘲笑する。彼らが本当に自分自身に生きようとする人、生命の源に立返って人生を味おうとする人、真実の要求に従って生活しようとする人が悩み、悲しみ、夢みつつあるのを見るとき、彼らは合点ができないといわぬばかりの顔をして大人振った口の利き方をしながらいう、「君たちはまだ人生を知らないのだ。現実がどんなものだか分っていないのだ。」
しかしながら何故に彼らが、自分の心の奥で味うこともなく単に便宜的に観念してかかったもののみが、人生や現実やの如実の姿としてひとり妥当する権利をもち得るかは私には分らないことだ。むしろ本当に生きようとする人が体験するところのものが人生であり現実であるのではなかろうか。それらの概念の本当の意味は先入主的に決定さるべきものではなくて実際まじめに人生を生きた人によって初めて味得さるべきものである。
私はいまここに偶像を再興しようとしている。その偶像が第一にいわゆる近代人の懐疑や頽廃にどこまでも執著して、自己の源に還って素直な心になろうとしない心には全くあり得ないものであることは明らかである。けれども第二に私の再興しようという偶像が外観上いかほど伝統や証権やの打建てたところのものに似ていようともその精神において全く異なったものであることをあくまで私は主張する。私は利己的であれというよりも人を愛せよという。けれど私は本当に自由な心から人を愛せよと説明する。少しの魂をも籠めることなくただ形式的に人を愛するがごとく振舞う人よりも私はむしろ本当に旺盛な魂をもって人を憎む人を好む。なぜなら私は怠惰ほど救済から遠退いているものはないと信ずるから。かようにして真に自由なる人こそ私のあこがれの対象である。
私はこれまであたかも楽しみや嬉しさの意義と価値とを全く否定してしまいでもするように、あまりに多く苦しみと悲しみとについて語ったかのように思う。しかし私の根本思想はそれとはまるで正反対の傾向をとっておる。単にそれ自身として比較するとき、私は楽しみが苦しみよりも大なる価値をもつものであることを容赦もなく承認する。あるいはむしろ苦しみは消極的の価値もしくは手段的の価値しかもっていないもののように思われる。私は私たちが最後の完成に達する日すべての苦しみと悲しみとが征服されており、あらゆる人間性が美しき解放を得て円満に調和し、福と徳とが完全に一致すべきことを信ぜずにはいられない。それにもかかわらず私が特に苦しみと悲しみとを高調するゆえんは、一方では現実の人間性がいかに不完全にして罪悪に充たされておるかを感ぜざるを得ず、他方では世のいわゆる楽しみがいかに多くの悪の根源となっておるかを見ざるを得ないからである。私たちが尊敬する体験深き人々が幾度となく繰返しておるように、私たちは徹頭徹尾罪をもって汚された弱く小さいものであって救済を要求せずにはいられないようなものである。いやしくも真に生きようという人は自己の醜さを悲しみ嘆かずにはいられない。あるいは逆に苦しみ悲しむ人はまじめであることができるのである。そしてまじめな人のみが本当に自己を反省することができ、従ってよき生活を生きることができるのである。現実の人生はそれの本質上からいってまじめなものは苦しみを感ぜずにはいられず、苦しみを感ずるものはまじめにならざるを得ないのである。しかのみならずかくのごとき本質的な罪苦の意識ばかりでなく、世間の人々がふつう苦しみといっておるものでさえ、私たちをまじめにすることができる。病気、死、災難、不幸などを経験させられるとき、傲慢な心も謙虚にかえり、無反省な精神も反省的となり、外向的な人も内向的となり、遊惰な人間も活動的となる。要するに苦しみは人をまじめにならしめる。そして苦しみの価値は主としてここにある。しかしながら私たちはその反面の事実を見遁してはならない。いかなる苦しみにも堪え忍びつつ、自己の精神を向上せしめる偉大な人々においてはもちろんあり得ないことであるが、矮小な私たちの魂にあっては、多くの事実が示しておるように、あまりに多くの悲しみや苦しみは私たちの心を曲げさせ、拗ねさせ、卑屈にし、猜疑的にする。要するにそれは素直な心を伸びさせない。私が襲って来るかも知れぬ苦しみに対して恐れ戦くのは主としてこの理由からである。(けれどいっそう徹底的に考えるならば、恐れ戦くということがすでに間違っているのかも知れない。運命はすべてを知っているはずだ。そして私たちの良心はいつでも、私たちがもしそれに従うことを厭わないならば私たちを正しき方向へ導いてくれるに相違ない。)
さて、あたかも私が楽しみを絶対に排斥するかのごとく見える理由は次の通りである。楽しみは多くの場合私たちを不まじめにする。それは私たちを事物の表面に軽く触れてゆくことに満足させてそれの内奥へはいって行って深く体験することを忘れさせる。それは私たちの反省の強さを失わせ従って私たちの性格の根強さをなくする。それは私たちを徹底と努力と活動とに励まさないでかえって不徹底と無気力と遊惰とに導く。けれどそれにも関せず私が楽しみに多くの価値をおくところの理由は、それが素直な心を成長させやすいことを思うからである。豊饒な土地に卸された種が伸びやかに生長して美しき花を咲かせやすいように、よき周囲の状態に置かれた心は純粋にまた正直に育って行って美しき夢を結びやすい。それは博大と自由との心に親しみやすい。かくして私の結論は次のような形をもって表わされても差支えないように思われる、私は楽しみを欲する、けれど弱小な楽しみよりも偉大なる苦しみを求める。しかしそれよりも以上に偉大なる楽しみを喜ぶ。あるいは私は偉大なる苦しみを尊敬し、偉大なる楽しみを憧れる。
素直な心は拗ねることを知らないから、それはまたナイーブで率直である。それは純粋と無邪気とを貴ぶがゆえに、皮肉や洒落やあてこすりがそれらのものを失わせはしないかを恐れる。自分が本当に感じたり考えたりしたことを率直にいったり行ったりするナイビテート(素直さ)によき魂の特質は見出される。率直な心の力は自己の利益や便宜を顧慮したり世間の思わくに躊躇したりすることによって妨げられることを嫌うどころか、それらのものを全く顧みないところの強さをもっておる。それゆえに自分自身の利便を擲って恐れず、時には自己の身命をも棄てて顧みない人の心において初めて、素直なもしくはナイーブで率直な心は成立する。私は私が尊敬し憧憬する多くの天才の思想や生活を考えるとき、常に彼らの単純さや率直さ、あるいは彼らのナイビテートを思わざるを得ない。彼らのある時には憎らしく思われるほどの、言行の大胆さや図々しさは、多くの人、殊に事物の外形のみを見てそれの本質に探り入ることを怠っている人によって誤解されておるように、彼らの傲慢な心から出たものではなくて、むしろ彼らの単純さと率直さ、あるいは彼らのナイビテートから出たもののように思われる。彼らは世慣れたと自称しまたそのことがたいへん立派なことであるように考えている人たちが重宝がる婉曲や紆説が、彼らの精神力の純粋とまじめと強さと相容れないものであることを無意識的に知っておる。皮肉や洒落や諷刺が無邪気で快活な心からよりも狡猾で陰険な心から生れやすく、またそれが無邪気で快活な心のものである場合においてさえ人をして往々素直に事物を観察し経験する心を曲げしめ、もしくは事物に対するまじめな態度を失わしめやすい事実を見定めることは、そして、鋭さに深さよりもいっそう多くの興味をもちたがる私たちには重要なことである。
もちろん私だって皮肉や洒落や諷刺を悉く否定しようというのではない。素直な心は微笑む快活な心であり、散文的なものよりも詩的なものを好む心であり、また人生には遊戯がなければならず、しかして遊戯は単に手段上の価値ばかりでなくそれ自身の価値をもっており、それゆえに喜劇は悲劇とともに価値があると信ずる私は、無邪気で快活な心の微笑みであり戯れである皮肉や洒落や諷刺の愛すべきことを知っているはずである。ただ私が恐れるのはそれらのものがあまりに多く繰返されるとき、事物を素直に見る心と事物にまじめに対する態度とを失わせやすいことである。私が求める快活や微笑や戯れは、いつでも健康な生命の活動から自ら流れ出るところのものである。
一二
個性とは傲慢な心には知られないようなものである。それは反省のみが与り得る知識であり、しかして反省は謙虚なる心においてのみ可能である。限りなきへりくだりをもって自己の正しき姿を観じまた他の人々を尊敬し愛するとともに、どこまでも剛く健かな心の活動をもって本当に自己の衷に見出されたものを維持し発展することができる人は、真に個性の何たるかを理解することができる。個性の真の認識は心理学の知識ではなくて反省の知識である。そしてそれゆえに個性の正しき認識は概念をもってしては十分に現わすことができない闇そのものに関する真理の一部分に属しておる。徒に外に向って内に向うことを知らない人、無暗に他人に対抗しようとして自己に還ることを忘れた人、それらの人に対しては個性の理解の扉は堅く閉されておる。なぜならば真に自分自身を理解しない人が他人の個性を理解し得ようなどとはとうてい信ずることができないから。自己に目覚める心はやがて他人に目覚める心である。自分自身に次第に深く目覚めてゆくに従って、私たちの他の人格を理解する深さと広さとはそれだけ次第に増大してゆくのである。いわゆる世故に長けた人、世慣れた人が自分らのみが他の人々を本当に理解しておりまた他の人々を愛する権利をもっておるかのように考えて振舞っておることほど私には滑稽なものはない。それらの人々は先生ぶった、先輩ぶったもしくは兄貴ぶった口の利き方をしながら私にしばしばいった、「君の心はよく分っている。私がいいように計ってやるから心配することはない。」しかし私は彼らの庇うような態度や彼らの情熱のない口の利き方から、彼らが私を彼らの人間一般に対する先入主見に従って理解しており、彼らの愛や同情が他人の弱小を憐むことにおいて見出される自己の優越の感じを味うことの快さに本づいておることを直感せずにはいられなかった。また本当の理解や愛がそんなところに決して成立しないものであることを私は信ぜざるを得ないから、どうしても心から彼らに感謝することができなかった。
個性の理解の強さと深さとは反省の力の強さと深さとに本づき、しかして性格の強さと深さとは主としてそれらのものに本づくのである。私は陰鬱な型に属するセンチメンタリストがしばしば自分の性格を非常に深いもののように思っているのを見た。彼らは大抵いわゆる近代的の憂愁と敏感とを深い性格の人の特徴として考えているらしい。私も憂鬱をもって偉大なる性格の人の唯一ではないが唯一つの特徴であると考えること、また彼らの性格の強さと深さとがそこに根柢をもっておるとすることを非難しようとは思わない。ただ私は私たちに陰鬱な感じを与える人に、浅くはあるが濁っているために暗く感ぜられる人とその人が奥底にもっておる深い闇のゆえに暗く感ぜられる人との二つの種類があることに注意したい。前者には素直さと純粋さとがない。彼らの心は拗ねて卑屈であり、自由を失って執拗であり、堕落させた感情の中へ自己を溺れさせて濁った涙を徒に外に向って流そうとする。私は感情や情調や気分や涙の価値を誰にも劣らず認めているつもりであるが、私自身が経て来た経験からそれらのものが純粋さを失うとき、いかに私たちを堕落させるものであるかを痛切に感ぜざるを得ない。また私は敏感がいかに多くの天才の特質であったかを誰よりも以上に承認する。しかし私はそれらの天才の感情や情調や気分や涙がいかに純粋であり、生命的であり、自由であるかを知っている。私はヒステリー女の感傷を退けて無邪気な子供の美しき感傷に憧れる。いわゆるセンチメンタリストには性格の強さがないのはもちろんであるが、彼らにはまたそれの深さもない。
これに反して偉大なる人格の闇と憂鬱とは生命そのもの、私たちの奥底に横たわる意志そのものの純粋にして自由なる闇と憂鬱とである。あるいは彼らの深く掘り下げてゆく心がかかる闇と憂鬱とに面と向ったとき、もしくは彼らの強い直観力が殆んど無意識的にかかる闇と憂鬱とを感ずるときに自ら生れるところの闇と憂鬱とである。それらのものは彼らにおいて生命であり力であるがゆえに、時にはそれらのものは自分自身を否定して巨大なる光輝となって輝き出でる。それゆえに彼らの根柢にある闇と憂鬱の海はそれが白波となって砕けて表面を蔽う快活のために見誤られ見遁されることがしばしばある。彼らにおいてこそ性格の強さと深さとは見出されるのである。
あたかも岐路へ踏み入ったかのごとく感ぜられる私の上の考察は、真の個性は自己の表面に漂うものよりもその根柢に厳存するもの、外に拡る心よりも内に潜む心にそれの本質を有するものであることを理解する上に幾分か役立つであろうと思う。自己に覚めたといい、自己に生きておるといって誇りげに振舞っておる世の多くのいわゆる新しき人を見るに、彼らは彼らにおいて特性的なもの、病的なもの、畸形なるもの、もしくは単に表面に漂う気分をあたかも真の個性のごとく考えて、それらのものを弥が上に主張しようとするのである。彼らの多くは剛情で片意地で尊大である。徒に他に対立し拮抗して行こうとする彼らの心は険しくて安静を欠いている。彼らは彼らの他に徒に対抗してゆこうとする険しい心が、彼らを駆らずにはおかない限りなき運動をもって旺盛な心の活動と思い誤り、彼らの不安と焦躁との中に動揺して止まない気持を素敵に勇敢な気持だと考え誤っている。けれど真の活動には自由な安静が感ぜられ、真に勇敢な気持には反面に謙虚な気持が伴っている。また真の個性の本質は普遍的なるものが自ら分化発展してとったところの形において見出されるのである。個性の根柢は普遍的なるものにある。しかして普遍的なるものは己れ自身に具えた力によって内面的に発展して特殊の形をとるのである。
私はかつて「ライプニッツ哲学と個性概念」という論文を草して、ライプニッツ哲学の実体概念に関係して個性概念の幾分の論述を試みた。いまここにそれらの思想を繰返して書くことは、この一篇を完全な形にするためには必要なことかも知れないが、私自身にとっては無駄なことであるように考えられる。ただ私がそこにおいて個性概念を価値的同一と形而上学的同一との二つの観点から考察したことに関係して、私の意味する個性概念が心理学者の意味するそれと全く異なったものであることを注意するために次の事柄を指摘しておきたいと思う。私たちの生活の中に現われ出る感覚、感情、観念等は心理学者が説くように一々因果関係に束縛されておる。そしてそれらの感覚、観念、感情、欲望等の中のあるものは一般的なものとして他のものに増して執拗にまた力強く私たちの生活を支配しておる。しかるにある時現われ出た一つの新しいものが奇蹟的な力をもって私たちの日常生活をふつう支配しておるところの感覚、観念、感情、欲望等を駆逐し、征服し、もしくはそれらに新しき光を与えることがある。かかるものは私たちが日々の生活の中に殆んど感ぜられずにいてある機会に突然現われることもあろうし、また平生予感されていたものが一時猛然として現われることもあろうし、もしくは日も夜も求めて止まなかったのがあるときに与えられることもあろう。いずれにせよかかるものは永遠なるものに関係しており、しかしてかかるものは私たちの生活において偉大なる勢をもって価値の転換を遂行する。そしてかかるものが完全に私たちの内部を一新し終るとき、私たちはそれを更生とよぶことができる。私の考によれば、真の個性はそのとき少しも蔽われない姿において輝き出でるのである。とにかく個性とは永遠なるものに与り、を求める限りにおいて成立するところのものである。私が個性概念の価値的同一の方面の根柢を意志の自由に本づけたのもかくのごとき意味である。
私が最初ペンを取ったとき、私はこの一篇に少しの組織をも考え及ばなかったが、まもなく私の哲学の学徒としての要求がかかる種類のものにさえ何等かの秩序を求めた。そこで私は大体の計画を作りその計画に従って思索して得た結果を毎日十枚宛一ヵ月間記し続けて三百枚に至るの日ペンを擱こうと思った。しかし中途にして私は再び初めの正しき動機に立返ることが出来た。組織や体系やは現在の私の問題の中にあってはならない。私自身の心の改造が何よりも肝要なことである。かくて私は私がそれについて書いてみようと思った、友情、恋、愛、教育、社会、文化の諸概念の考察を思い止ることにした。これらの諸概念の中のあるものたとえば友情、恋、愛等については私はこれまでにたびたび反省してみる機会をもつことができたのであって、現在の私はそれらの概念をもう一度吟味してみることに迫られていないと思う。また他のものたとえば教育、社会、文化等については、それらが私の今の心の状態に直接の関係をもっていないばかりでなく、私のそれらに関する知識や経験の貧しさは第一に私がそれらについて語ることの僣越を咎める。私は私が近頃それの悪を私の衷に特に感ぜざるを得なかった虚栄心、利己心、傲慢心の三者を排斥して素直な心をもって置換えることにこの一篇の中心目的を見出すのである。私の体系を求むる心が本当に私自身に迫るとき、もしくは私の生活がそれをさせずにはおかないようになったとき、私はいま私の考察から脱した、これまで幾度となく考えたあるいは未だかつて考えたことのない諸概念について思索を試みるであろう。
――千九百十九年七月十七日 東京の西郊中野にて脱稿
(『三木清著作集』第一巻所収 一九四六年刊 岩波書店)