五 認識論
認識論といふ言葉は今日多くの人々にとつて不思議な響をもつてゐる。それは何か極めて特別なものであり、しかしそれは何か非常に難しいものであり、しかもそれは何か恐しい力をもつたものであるかのやうに思はれてゐるのである。誰もそれに近づかうと願ふ、しかし同時に誰もそれから遠ざかつてゐたいと思ふ。言葉の魔術から自由になるといふことはあらゆる科学的研究の出発点である。そこで我々は先づ認識論といふ言葉のもつてゐる魔術性を取り除かねばならぬ。
認識論と訳されてゐる言葉の原語を見ると、ドイツ語では普通 Erkenntnistheorie であり、英語では theory of knowledge といふ。これをギリシア語から構成して、ドイツ語の Epistemologie また英語の epistemology といふやうな言葉も出来てゐる。ところでこれらの言葉は古いものではない。Erkenntnistheorie といふ語はエルンスト・ラインホールトがその『人間の認識能力の理論及び形而上学』(一八三二年)において初めて用ゐたといはれてゐる。当時普通に「認識能力の理論」(Theorie des Erkenntnisvermögens)もしくは「認識能力の批判」(Kritik des Erkenntnisvermögens)といふやうな言葉が使はれてゐた。ここに見られるやうに、認識の理論は一般に認識についての批判的研究を意味したのである。まことに批判的といふことは認識論の最も一般的な特徴である。そこで Erkenntnistheorie といふ語のほかに Erkenntniskritik(認識批判)といふ語もあり、或る人は後者をもつて前者に置き換へてゐる。その他ボルツァーノなどは知識学(Wissenschaftslehre)といふ語を用ゐ、それに従つてゐる者も見受けられる。
認識論といふ言葉が比較的新しいものであるやうに、その表はす内容をなすところの学問もまた近代のものであると見られてゐる。それは普通には、イギリスのロックやヒュームに始まり、ドイツのカントによつて根柢をおかれた、と考へられる。この方面のロックの書物は『人間悟性論』(An essay concerning human understanding, 1690.)、ヒュームの主著は『人性論』(A treatise of human nature, 1739―1740.)、カントのそれは『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunft, Erste Auflage 1781, Zweite Auflage 1787.)と呼ばれた。何故に彼等によつて認識論といふ特殊な学問が初めて建設されたものの如くに見られるのであるか。一般的にいふと、それは彼等が認識の批判的研究を開始した人々であるからである。単に認識に関する理論ならばそれ以前にもないではなかつた。それは実にギリシア哲学以来のものである。しかし彼等以前の哲学における認識の理論はすべて十分に批判的でなかつた。それは独断論(Dogmatismus)であつたといはれる。独断論と批判的研究との相違は、ロック、ヒューム及びカントが認識の限界の問題を意識的に提出したといふところに、最も簡単に、最も明瞭に、現はれてゐるであらう。独断論は人間の認識は無限に可能であり、従つて実在そのものを認識し得るといふ立場である。それ故にこのやうな立場では、認識の理論が説かれるとしても、それは実在に関する理論即ち形而上学(Metaphysik)と結びついて説かれてゐるのがつねである。古代のプラトンの哲学、近世のライプニツの哲学などはそのよい例であらう。認識の理論が特に認識論といふ含蓄ある意味において成立するに到つたのは、形而上学に対する不信が一般的になつたことによるのである。近代の自然科学がかかる不信のために次第に道を開いた。経験的科学として自然科学は次第に形而上学に反抗し、それから解放されることを求めた。このやうな自然科学の刺戟なくしては、認識の理論は特に認識論として現はれなかつたであらう。そこで認識論は近代の経験的自然科学の影響のもとに生れたイギリスの経験論(Empirismus)の哲学の内部において先づ成立した。それは非形而上学的なもしくは反形而上学的な啓蒙思想の産物と見られることができる。ここに認識の理論は実在についての理論から分れて、認識論といふ特殊な学問として独立するやうになつた。ロックはいつてゐる、「我々の研究はそれ故に、我々の知識の起原、確実性及び範囲を研究し、それと共に信仰、意見及び承認などの根拠並びに程度等を研究する。この研究のために、心の物的条件は何であるかといふことには今は関与しない。また心の本質が何であるかといふことにも立ち入らないであらう。心の如何なる運動、或ひは肉体の如何なる変化が感官に如何なる感覚を生ぜしめるか、またそれが悟性に如何なる観念を生ぜしめるか。さては観念は全部物質なるものに依存してゐるか、それともただ一部分であるか。これらの問題に関する議論は、ともかく面白いことではあるが、事は思弁に属するから、我々のなすべきことでない。」認識論が認識の問題を従来の形而上学の問題から離れて研究しようとしてゐることはこれらの言葉によつて明瞭であらう。そしてまたそこに認識論そのものの問題がロックによつて規定されてゐる。それは就中、一、認識の起原の問題、二、認識の確実性、従つて妥当性の問題、三、認識の範囲、従つて限界の問題である。これらの問題はそれ以来つねに認識論の固有な問題としてとどまつてゐる。そしてその研究の結果において一つのことはいはば既に予め定められてゐた。我々はそれを認識論の先取的結論とも呼ぶことができよう。かかる結論といふのは形而上学の不可能といふことである。認識論はこの結論を先取する。即ち逆説的にいへば、認識論における認識の批判的研究によつて初めて形而上学の不可能が証明されるやうになつたのではなく、むしろ形而上学の不可能が他のところで、特に自然科学において、明かになつたために、認識の批判的研究としての認識論、単に認識の理論でなく含蓄ある意味における認識論、は初めて可能になつたのである。このやうにして認識の限界の問題は認識論の成立にあたつて重要な意味をもつてゐたのである。
認識論にとつて非形而上学的或ひは反形而上学的結論は先取的である。そこでカント以後の哲学、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどのいはゆるドイツ浪漫主義の哲学において再び形而上学的傾向が勃興して来たとき、固有な意味で認識論と呼ばれるものは姿を消してしまつた。これらの哲学において認識の問題が論じられなかつたといふのではなく、いな、そこには極めてすぐれた認識の理論が含まれてゐるのであるけれども、認識論といふものは存在しなかつたのである。なぜならそこでは認識の理論は実在の理論と再び密接な聯関において述べられたからである。ヘーゲルにおいて最も雄大な体系に組織された形而上学は、彼の死と共に瓦解し始める。そしてこのとき現はれた形而上学の批判者のうち最も有力なものはまた自然科学であつたのである。かくして再び認識論は擡頭して来た。認識の問題が実在の問題から離れて論ぜられることになつたからである。認識論が形而上学の不可能を証明すべきものとして要求されることになつたのである。
自然科学と認識論とのこのやうな因縁を考へるならば、従来の認識論が主として自然科学に定位をとり、かくして自然科学的であつたことの歴史的必然性は容易に理解され得るであらう。ロックやヒュームなどの認識論が既に自然科学的であつた。カントの『純粋理性批判』もまた自然科学、特に数学的自然科学に定位をとつてゐる。自然科学がルネサンス以来夙に形而上学の支配を脱して、独立に発展して来たのに反して、歴史及び社会に関する科学はその後もなほ永い間形而上学の覊絆を脱せず、その影響のもとにあつた。この事情が認識論における歴史科学または社会科学の無視乃至軽視といふ、一般的傾向のひとつの重要な理由であつたであらう。いづれにせよ、認識論の自然科学への偏向といふ事実は注意されなければならない。
認識論の非形而上学的或ひは反形而上学的傾向からして、そのひとつの他の傾向、むしろ偏向が随つて来るであらう。認識論は認識の問題を実在の問題から分離することによつて成立した。そしてこれは認識の限界の問題と自然的に結びついてゐた。認識には限界があるといふ思想を積極的に述べるとき、不可知論(Agnostizismus)が生じる。不可知論といふのは実在或ひは絶対者は不可認識的な(unknowable; unerkennbar)ものであるといふ主張である。絶対者は我々の知り得ざるものであるといふ思想は昔からないではなかつた。その顕著な例としてニコラウス・クザーヌスの哲学を挙げることができるであらう。彼によると、無限な存在としての神は一切の矛盾の一致、即ち coincidentia oppositorum である。かかる無限な存在は人間の心の三つの形態、感性、悟性、叡智のいづれによつても理解され得ない。神は我々有限な者の認識にとつて単純に限界としてとどまつてゐる。それは認識を絶した直観をもつて、いはゆる無知の知(docta ignorantia)による神秘的な直観をもつてのみ、理解され得るものである。ところでクザーヌスその他の場合と近代の認識論上の不可知論の場合とでは相違がある。前の場合には絶対者の規定から人間の認識への道を取つてゐる。絶対者については信仰或ひは神秘的直観などによつて既に理解されてゐるのである。従つてそこには本来の不可知論はない。しかし絶対者の諸規定は人間の認識の尺度によつては測られぬものであると主張されるのである。しかもこのやうな不可測性の根源は絶対者の存在と人間の存在との間の存在的な関係そのもののうちに横たはつてゐると考へられる。無限な神と有限な人間との間には存在上如何なる比例もないところに、人間の神に対する関係も定められてゐる。このやうな考へ方とは反対に、認識論上の不可知論は認識の規定から絶対者への道を取る。カントはかかる道において物自体(Ding an sich)は知り得ないといふ不可知論的な方向を示してゐる。イギリスの学者ハミルトンは、カントの影響のもとに、内的経験といふ意識の事実においてはつねにただ有限なものが有限な諸関係において我々の認識に達するのみであり、この意味において人間の知識は有限なものの経験に限られるとした。無限なもの、絶対的なものは認識すべからざるものである。この不可知論は一方ではマンセル、他方ではスペンサーなどの哲学においてひとつの重要な役割を演じ、イギリスの哲学の上に絶えず投げられてゐる顕著な陰影である。ところで我々にとつて重要なことは、認識論的哲学がこのやうに認識の問題を実在の問題に必ず先立つべきものであるとし、前者の解決を後者の解決に欠くべからざる先決条件とするところから、進んで、実在の問題に対する、いな、一般に存在の問題に対する無頓着を示す傾向をおのづから含んでゐるといふことである。存在の問題への無関心、延いてはその積極的な除外が認識論的哲学における注意すべき偏向であると見ることができる。
かくて存在からの距離といふことはいはゆる認識論の一般的特徴である。これは認識論といふ語に論理学(Logik)といふ語が置き換へられるとき最も鋭く現はれるであらう。この置き換へはしばしば行はれ、現代において論理学といふとき、認識論を意味してゐることはしばしばである。例へば、ヘルマン・コーヘンの『純粋認識の論理学』(Logik der reinen Erkenntnis)といふ書物は認識論の書物である。このやうに論理学と認識論とが同義の学問と看做されることは極めて普通になつてゐる。
さて右の叙述から我々は次のやうにいふことができる。第一に、含蓄ある意味における認識論は自然科学と絶えず密接な関係をもつて構成された。そこで同じ認識の理論であつても、その理論の構成の地盤が自然科学でなく、歴史的社会的存在に関する科学の方へ移されることになれば、認識論といふ特殊な意味の学問はもはや次第にその存在の独立性を失つてゆくことにならう。そして実際ヘーゲルの後、彼の形而上学は勢力を失墜しはしたが、彼の哲学の精神は科学の座標において分解され、かくして歴史科学及び社会科学の著しい発展を喚び起した。ここにこれらの科学の認識の理論が特に問題にされることとなり、それと共にいはゆる認識論は次第に解消されることとなつた。ヴィルヘルム・ディルタイの生の哲学(Lebensphilosophie)がこの傾向を代表するであらう。しかるに第二に、認識論においては認識の理論が存在の理論から游離するといふ自然的な傾向がそのうちに含まれてゐた。それだから、いまもし何等かの意味で存在の問題が再び重要視されるに到るや否や、いはゆる認識論といふ特殊なものは、他のものに変形してゆかねばならぬ。カント以前の哲学、特にデカルトの哲学に接近を求めていつたところのエドムント・フッサールの現象学(Phänomenologie)において我々は既にかかる傾向のひとつを見出し得るであらう。
これまでに明かにして来たことは、認識論の歴史性といふことに尽きる。最近に至るまで哲学において支配的であつた認識論的傾向はそれ自身ひとつの歴史的なものである。従つてそれはそれ自身のうちに或る前提、或る先入主見、或る偏向を含んでゐる。これらのものを明るみに出すことが今や哲学そのものの発展のために要求されてゐると思はれる。私のこの小さい解説的研究はその目的のために許される限りにおいて仕へねばならなかつた。もし認識論といふものを広い意味に解し、その歴史的制約を除いて考へるならば、かかる意味での認識の理論一般はいはば哲学と共に古く、いつの時代にも、いかなる哲学のうちにもつねに包まれてゐたところのものである。それは理論哲学一般とその範囲を同じくする。それは例へばギリシアの学問が学問を物理学、倫理学及び論理学の三つに区分したといはれる場合の論理学にあたるものであらうが、このとき論理学はギリシアの学問において近代におけるそれとは全く違つた意味をもつてゐたのである。
いまや我々は認識に関する理論をいはゆる認識論の偏見から解放しなければならない。そのためには我々は存在の問題に深く入つてゆくことが必要であると考へる。認識の問題を存在の問題のうちに排列するといふ方向へ我々は進んでゆくべきであらう。