認識論 (三木 清)

四 認識と生

我々は認識に関する諸理論が一定の構造を示してゐるのを見てきた。どのやうな存在が問題となつてゐるかといふことに、どのやうな心的作用がその認識にとつて根源的と考へられるかといふことが相応してゐる。更にそれらのことに認識そのものの理念が相応してゐる。例へば知覚説においては真理の概念にとつて明証の概念が決定的な意味をもつてゐる。しかるにどのやうな存在が問題になるかといふことは人間がどのやうな態度に現実的に規定されてゐるかといふことによつて決定される。例へば実践的な態度にとつては主として時間的空間的に限定された存在が問題になる。これに反して観想的な態度にとつては空間や時間を超越する本質またはイデアが主として関心される。なほ我々は認識の理論でさへも絶えずその根柢に人間の存在についての一定の解釈即ち一定の人間学をもつてゐるといふことを注意しておいた。ここでは先づこのことに多少立入つてみよう。

あらゆる理論は、従つて最も無前提的であると考へられる認識理論でさへもが、つねに人間の自己解釈の一定の仕方をその基礎に含んでゐる。このものはいはば自明の前提として、多くの場合無意志的に、すべての理論の根柢に横たはつてゐるのである。人間は彼等の歴史において種々の仕方で自己の本質を解釈してきた。そのうち二つのものは特に重要である。我々はその一を理性人間(homo rationalis)の人間学と、他を制作人間(homo faber)の人間学と名附けることができよう。これら二つの人間学の対立は認識理論にとつても決定的な意味をもつてゐると思はれる。

理性人間の人間学はもとギリシア市民の発見したものである。それは人間の本質をヌース或ひはロゴスと見る思想である。それはアナクサゴラス、プラトン、アリストテレスなどによつて概念的に、哲学的に形作り上げられた。後にそれはキリスト教と同化し、かくてヨーロッパの思想を永い間、強力に支配するに到つた。この人間学は人間と動物一般とを決定的に区別する。しかしそれは人間と動物とを比較して、その形態学的、生物学的乃至心理学的特徴を取り出し、これによつて両者を区別するといふ如きことではないのである。その区別はむしろ先験的に行はれる。それは既に前提された神の思想、及び人間の神への相似(Gottebenbildlichkeit des Menschen)の説の帰結である。生物学的にはギリシア人は種の不変を信じた。不変な人間を人間たらしめてゐるものを彼等は人間の形相(eidos)と考へ、これは永遠なロゴスと解せられた。人間におけるヌース(理性)は、この世界を動かし、その秩序を作つてゐるところの神的なヌースのひとつの部分機能である。いま我々はこのやうな人間学の主要思想を次のやうに※[「纏」の「广」に代えて「厂」、54-14]めることができる。一、人間は自然の如何なるものも有せぬ神的な力をみづからのうちに具へてゐる。人間は理性によつて他のすべてのものから自己を区別する。二、人間におけるこの力は、世界を世界に、コスモス(秩序ある世界)に永遠に形作つてゐるところの力と、存在論的に、或ひはその原理において、同一のものである。まさにそれ故に人間におけるこの力こそまた世界の認識のために真実に適応せる力を有するものである。三、ロゴス即ち人間理性としてのこの力は、人間が動物と共通に具へてゐるところの衝動や感性の助けを借りることなしに、自己のイデア的な諸内容を実現し得る力を有してゐる。四、この力は歴史を超越し、民族とか身分とかの別なく、つねに恒常である。それは絶対に不変である。

この人間学は、デカルト、スピノザ、ライプニツ、カント、その他において、その思想の差異にも拘らず、根本ではすべて同じである。右の四つの点のうちただ一つについてヘーゲルが変革を行つた。他の三つの点ではヘーゲルも同じ思想であつたばかりでなく、むしろ彼は人間的理性と神的理性との同一を説くことによつてそれらの諸点を極端にまで押し進めたのである。ヘーゲルは理性の歴史を超越する恒常性を否定した。理性そのものが歴史を有し、歴史において発展する。理性は動かぬものでなく、却つて運動と変化がその本質に属してゐる。これは理性人間の人間学の内部における極めて重要な、決して見遁してはならぬ変革である。歴史の概念がここにおいて最も強力な基礎の上におかれることとなつた。

第二の人間学即ち制作人間の人間学は、比較的新しい誕生のものである。ダーウィンの種の変化の学説がこれに対して顕著な影響を与へたと見ることができる。この人間学は人間と動物との間に本質的な差別を認めない。人間もひとつの特殊な動物の種類であつて、両者の間には単に程度上の差異があるに過ぎない。人間のうちには他の一切の生物におけると同様の諸要素、諸力、諸法則がはたらき、ただ一層複雑な組織形態をとつてゐるまでである。理性といはれるものもなんら形而上学的根源のものではない。それはなんら自律的な法則性ではなく、すでに類人猿においても見出される高等な心理作用の一層発達したものであつて、技術的知性(technische Intelligenz)といふべきものである。技術的知性といふのは環境的世界の構造の予料によつて新しい状況に活動的に適応する能力である。この技術的知性には神経系統の諸機能が一義的に相応してゐる。我々の認識といふものは有機体における刺戟とその反応との間に絶えず一層豊富に入り込んで来るところの形象系列にほかならず、従つてまた我々の認識といふものは活動のために我々自身によつて作られた物の記号である。認識による活動は、本能が直接的にしてゐた仕事を間接的に、しかし一層効果的になし遂げるといふに過ぎない。それらの記号及びその諸結合は、生活を増進するやうな反応を惹き起すことに成功するとき真であつて、反対の場合は偽である。かくして人間とは何かといふ問は、ここでは次のやうに答へられる。一、人間とは記号動物(Zeichentier)である。かやうな記号として彼は特に言語をもつてゐる。二、人間とは道具動物(Werkzeugtier)である。彼は道具を作る動物であつて、記号、言語認識もまたひとつの、しかも最も精巧な道具である。三、人間とは脳髄的存在(Gehirnwesen)である。彼においては他の動物とは格段の相違でエネルギーが脳髄のために費される。このやうな人間学は極めて徐々に理性人間の人間学を破つて、哲学の方面ではとりわけ近代の自然主義的及び実証主義的傾向のうちにおいてその基礎として承認されるに到つた。我々はいまこのやうな人間学を根柢としてゐる認識理論に注意を向けよう。

先づプラグマティズム(pragmatism)について述べておかう。プラグマティズムは主としてアメリカの哲学であつて、ジェームズがその代表的理論家である。イギリスのシラーのいはゆるヒューマニズムなどもこの傾向に属してゐる。プラグマティズムといふ言葉は、ギリシア語のプラグマ即ち行動を意味する言葉から派生されたものであつて、ひとつの観念或ひは理論の真理性を、その論理的帰結によつてではなく、その実践的帰結(practical consequences)によつて判定しようとする思想である。世界は一であるか多であるか、決定されてゐるか自由であるか、物質であるか精神であるか。このやうな形而上学的問題についての論争は終結することなく絶えず繰り返されてゐる。プラグマティズムはかくの如き場合そのおのおのの観念をそれぞれの実際上の効果を跡づけることによつて解釈しようと試みる。他の観念でなく一の観念が真であるとすれば、それは我々にとつて実際上どのやうな差異をもたらすであらうか。相容れない二つの観念がもし実践的帰結においてなんらの差異をも示さないとすれば、両者は畢竟同一のことを意味するのであつて、そのときには一切の論争は無駄である。もし論争が真面目なものであるならば、そこに或る実際上の差異が生じ得る筈であり、そして我々はそれによつていづれの観念が正しいかを定めることができる。真理の標準となるのは人間の実際的生活にとつての有用性(utility)である。ひとつの思想の意味を展開しようと思へば、我々はただそれが如何なる行為を作り出すに適してゐるかを決定しさへすればよい、その行為が我々にとつてその思想の有する唯一の意味である。物についての我々の思想において完全な明瞭性に達するためには、我々はただそれが考へ得べき如何なる実際上の効果を含んでゐるかを考へてみることを要する。このやうな効果についての我々の観念が、苟もそれが我々にとつて積極的な意味をもつてゐる限り、その物についての我々の観念の全体である。かくてプラグマティズムは、あの倫理学上の功利主義(Utilitarismus)が効果の倫理(Ethik des Erfolgs)であるのに対して、効果の論理(Logik des Erfolgs)であるといひ得るであらう。プラグマティズムにとつては認識は要するに我々の行為のための道具にほかならないから、それはまた道具主義(Instrumentalismus)として特色づけられる。

プラグマティズムは特に近代的な理論であり、その形跡は現代の種々の哲学において認められる。例へばフランスのベルグソンの哲学がまたこのやうなプラグマティズムの見方をそのうちに含んでゐる。ベルグソンはおよそ事物を考察するに二つの見方があると述べてゐる。第一の方法は物を外から、一定の観点をとつて見る。この場合観点の異るに応じてその見解も違つてこなければならず、しかるに観点は無数に可能であるから、このときまた物について無数の見解が可能であらう。或る観点から見るといふことは、物を他との関係において見ることであり、従つてその方法は分析の方法である。分析といふのはひとつの物を他の物によつて言ひ表はすことであつて、ベルグソンの比喩によると、ひとつの飜訳である。それは符号を用ゐて物を言ひ表はすのである。第二の方法は物を内から、直観的に見る。このとき外面的な観点は悉く退けられて、なんらの符号も用ゐられることなく、我々は直接に物と合一する。第一の方法は、どのやうに精密になるにしても、即ち、如何に多くの観点を次から次へととり、また如何に多くの符号を使ふにしても、要するに物そのものの外廓を廻つてゐるばかりであつて、物の絶対的状態を把握することができぬ。ひとり第二の、直観の方法によつてのみ我々は物そのものの真相に味到し得る。二つの方法の相違はちやうど或る町を種々の方面から写した写真とその町の実見との相違である。写真をどれ程多く集めても町そのものの真の知識は得られないであらう。第一の方法は科学の用ゐる概念的方法であり、第二のものは絶対の学問たる哲学の方法である。ところでベルグソンは科学的もしくは概念的知識についてプラグマティズム的見解を抱いてゐる。我々の知識は主として行為にとつて有用なもの、利用し得べきものの製作を目的とすると看做されてゐる。知性は道具、殊に道具を作る道具を製造する能力である。概念的知識は、ベルグソンに従へば、純粋に知るために知るのではない。我々の知力はつねに或る利益のために、或る実際上の要求を満足させるために知らうとしてゐる。それはいつでも行為との関係において物を見てゐる。それだから概念といふものは我々が物に対して行為するための一定の型であつて、我々の行為及び態度の種々の種類があるだけ、それだけの種類の概念的方向があるといふことができる。概念は行為にとつてその物が如何なる意味を有するかを表はすためにその物に貼りつけられたレッテルの如きものである。

いまプラグマティズムの意味を正しく評価するために、とりわけ次の二つの点に注意することを忘れてはならない。第一に、ジェームズやベルグソンは認識の問題をただそれだけとして取扱ふことなく、それを具体的な存在の問題の中に排列しようとしてゐる。ジェームズはこのことを彼の根本的経験論(radical empiricism)と称する立場によつて意図してゐる。ここにいふ経験は自己包括的な一の全体である。知るといふことにおいて、知るものと知られるものとは共に経験の部分である。従来の認識論の根本概念である主観客観はこのやうに見られねばならぬ。それみづから経験の部分であるところの観念は、我々を助けて経験の他の部分と満足な関係に入らせる限りにおいて真となる。いな、我々が真とする思想は、まさに我々の経験のひとつの契機である故に、我々はその指導によつて我々の経験の他の契機と有効な結合をなし得るのである。ベルグソンもまた知識の理論は生の理論と分離さるべきでないと考へる。彼はいふ、知性を生の一般的進化のうちに置かぬ知識の理論は、如何に知識の框が構成されてゐるか、如何にして我々がそれを拡げ或ひはそれを越え得るかを我々に教へぬであらう、と。知識は生のひとつの現はれ方にほかならない。ベルグソンは生を純粋持続に象どる。純粋持続といふのは連続的な創造的な発展であつて、その本質において緊張である。緊張があれば、その反面に弛緩があらう。弛緩があるとき、生は自己を拡散して、横断的な空間的な関係に並置せしめられる。このやうにして成立するものが物質の世界である。ところで概念的知識は物を並置的な、空間的な関係において見ることを本性としてゐる。それ故に概念的知識と物質的世界とは同じ根源のものであつて、共に純粋持続の弛緩にもとづく、とベルグソンは考へる。第二に、ベルグソンの生及びジェームズの経験はいづれも原子論的(atomistisch)に把握されてゐないことを特色としてゐる。従来のイギリスの経験論哲学の基礎にはいつでもヒューム流の心理学が横たはつてゐた。ヒュームにおいて経験はばらばらの感覚的要素から構成された寄木細工に過ぎない。この経験要素たる印象は物理的な原子のやうに各自独立の存在と明確な輪郭とをもつてゐる。そしてこれらの印象の色褪せた模写であるところの観念も同じやうに相互に分立的である。諸印象並びに諸観念の間になんらかの関係があるとすれば、それは単に考へられた関係であつて、実在するところの関係ではない。因果関係の如きも屡々反覆して継起するところの現象を期待する精神の後天的な習慣の結果である。等しくプラグマティズム的な見方を含む思惟経済(Denkökonomie)の学説は、まさにこれに類する考への上に立つてゐる。思惟経済説はマッハやアヴェナリウスなどによつて唱へられ、主として自然科学者の間に追従者をもつてゐる。認識の目的は最も経済的に思惟するにある。マッハはいふ、学問は最小限の思惟消費をもつて能ふ限り完全に事実を記述することを目的とする。キルヒホフの有名な言葉によると、自然科学の任務は、自然において行はれる現象をできるだけ完全に、できるだけ簡単に、記述することである。クライビヒも、思惟作用は、思惟対象の最大量が思惟内容の最小量をもつて表象され、評価され、推論式で組み立てられるやうに、計画的に行はるべきである、といつてゐる。ところで直観は単に一々の個物を捉へ得るにとどまる。概念によつて一挙にして多くの事物の考察に達するといふことは思惟の仕事である。個物の直観に代へるに概念の思惟をもつてすることによつて我々は一々の個物を相手にするといふ不経済から免れることができる。しかしそれと同時に概念を思惟することにおいて我々のもつものはつねに個物の直観でなければならない。もしさうでないならば、我々の認識は事実を離れることになつてしまふであらう。しからば直観的個物から如何にして概念的な思惟に到達し得るのであるか。思惟経済説の見方によると、我々はひとつの個物によつて他の多くのそれと類似の物を代表させるのである。存在するのはただ直観的な個々の表象のみであつて、あらゆる思惟はそれにおいて或ひはそれを通して行はれる。そしてこれらの個々の表象をすべてに亙つて考へるといふことは実際に不可能であるばかりでなく、よし可能であるとしてもこれを行ふといふことは極めて不経済であるから、我々はひとつの表象を特に選んで他の多くの表象の代表者にする。かくして選ばれた個物は他の表象を代表する限り同時に一般的でなければならぬ。一般的なものはこのやうにして思惟経済の必要から生じた人工概念に過ぎない。この種の考へ方とは違つて、ジェームズのいふ経験は相互に独立な感覚要素の寄り集つたものではなく、それみづからにおいて根源的な関係を含む諸感覚の結合である。関係も感覚と同じく根源的に与へられる直接の経験に属してゐる。ベルグソンにおいても純粋持続の各々の瞬間は過去を含み未来を孕むと考へられてゐる。

これら二つの思想はまたディルタイに共通してゐるであらう。ディルタイによると、感覚の多様は結合の意識から離れては単に表象され得ないばかりでなく、むしろ存在し得ない。シュトゥンプもいふ如く、諸感覚のうちには直接にまたその秩序が内在的な特性として共に与へられてゐるのでなければならぬ。我々の経験の内容の内における秩序或ひは形式の内在といふことは経験の事実そのものの示すところである。比量的な思惟作用の第一次的な形式の根源を尋ねて、我々は知覚のうちに含まれ、このものの知的性質を形作つてゐるところの諸過程にまで溯ることができる。このやうな諸過程は比較、区別、結合、分離の如きものである。これらのものは基本的な論理的諸作用である。一般的にいつて、私がその背後に溯り得ぬ生そのものは、それにおいてやがて一切の経験及び思惟が顕はになるところの諸聯関を含んでゐる。そして実にそこに認識の全体の可能性にとつて決定的な点が横たはるのである。生と経験のうちに、思惟の諸形式、諸原理及び諸範疇において現はれる全聯関が含まれる故にのみ、この全聯関が生と経験において分析的に示され得る故にのみ、現実の認識は存在するのである。もし現実的に表象過程が思惟過程から全く区別されてゐるとしたならば、論理的諸形式及び諸原理の単なる分析でさへもがすでに不可能であらう。表象と思惟とは二元的に対立するものでなく、そこには一つの発生的な過程がある。形式論理学は表象と思惟といふ我々の認識根源の二元性を前提してゐる。ディルタイが分析的論理学(analytische Logik)と称するところの論理学の目的は、現実の経験の構造聯関を分析することによつてかかる二元的な見方を越えるにある。

ディルタイはあらゆる存在は我々の体験の事実として与へられると考へる。およそ私にとつてそこに在るものは私の意識の事実であるといふ最も一般的な条件のもとに立つてゐる。如何なる外的な物も私にとつてはただ意識の事実或ひは過程の結合として与へられてゐるのである。ディルタイはこのことを現象性の原理(Satz der Phänomenalität)といふ言葉で表はしてゐる。ところでこの原理は、従来の経験論的また一部分は先験論的認識論がしたやうに、主知主義的に解釈されてはならない。単なる表象的思惟的活動のうちに、存在の最高の制約が与へられてゐるのではない。それは衝動、意志及び感情の中に含まれる聯関のうちに横たはつてゐるのである。外界の実在性といふ如き問題もここから解かれることができる。もし我々にして単に表象的な主体であるならば、我々にとつて外界はどこまでもただ現象であるに過ぎないであらう。我々の意慾、情感、表象の全体的な聯関において外界の実在性は基礎附けられるのである。ディルタイはカントの意識一般の概念を抽象的、構成的であるとして、これを斥ける。カントの認識主観の血管の中には現実の血が流れてゐない。単なる思惟活動としての主観は、表象感情意志の作用の悉くを自己の契機として含む現実的な、全体的な生によつて置き換へられなければならぬ。学問の原理は生そのもののうちに横たはつてゐる。この意味でディルタイは彼の認識論は自省(Selbstbesinnung)の立場に立つものであるといつてゐる。彼はこのやうな思想にもとづいて特に歴史の問題を解かうとした。歴史は彼によると生または精神生活の表現にほかならぬ。従つてフンボルトのいつたやうに、人間歴史においてはたらいてゐる一切のものは人間の内面においてもはたらいてゐる。それ故にまた精神生活に関する研究即ち心理学は、あらゆる歴史科学にとつて基礎でなければならない。かくの如き心理学はもとより自然科学的な心理学であることができぬ。自然科学的心理学は説明的或ひは構成的心理学(erklärende oder konstruktive Psychologie)として特性附けられる。それは精神現象を一義的に規定された要素の一定数によつて因果関係に従属させようとする。例へば、一切の精神現象を感覚及び感情といふ二つの級の要素をもつて構成することによつて因果的に説明しようとするが如きはそれである。かやうな心理学に対してディルタイは記述的並びに分析的心理学(beschreibende und zergliedernde Psychologie)を打ち樹てようとした。このものの目標は精神生活の構造聯関である。この学問はそれ自身において基礎附けられてゐる。自然現象においては聯関は後から与へられるものであるに反して、精神生活においては聯関そのものが根源的に、第一次的に与へられてゐる。ここでは構造が直接に与へられてゐるのであるから、この領域の分析と記述を仕事とする心理学は動かし難い、疑ふことのできぬ基礎をもつてゐる。そこに自然認識と心理学的認識とにおける方法上の根本的な差異の根柢が存するであらう。前者の方法が説明(Erklären)といふ構成的なものであるに反して、後者の方法はむしろ分析的な理解(Verstehen)の方法である。

マルクス主義の認識論もまた一見プラグマティズムであるかのやうである。哲学者は世界を種々に解釈しただけだ、世界を変革することが問題であらうに、といつたマルクスは、その認識理論において実践の要素を甚だ重要視した。彼はいふ、人間的思惟に対象的真理が適合するか否かの問題は、なんら理論の問題でなく、実践的な問題である、と。実践において人間は真理を、即ち彼の思惟の現実性と力、此岸性を証明せねばならぬ。思惟、実践から游離された思惟の現実性或ひは非現実性に関する争は、全くのスコラ的問題である。一個のプディングの存在は、これを食ふことによつて確証することができる。このやうに真理の基準を実践に求める点でマルクス主義はプラグマティズムに類似してゐるやうに見える。しかしながら我々は次の点に注意することが肝要である。第一に、存在の概念における本質的な差異がそこに横たはつてゐる。ジェームズのいふ経験は心理学的なものであり、意識の流にほかならない。ベルグソンにおいても純粋持続はその本質において意識的なものである。そしてこれら二人の思想家においては存在の歴史性といふことについての理解が欠けてゐる。ディルタイは生の歴史性について誰よりも明瞭に認識した。人間の歴史的性質は彼のより高い性質一般である、と彼は語つてゐる。しかし彼にとつても生は本質的に意識的なもの、精神生活として把握された。マルクスは経験を重んずる。けれども、経験は彼において心理的主観的なものではなく、客観的歴史的に規定された存在である。従つて、意識は彼にとつて経験と等しくない。彼は意識を単に現実的な生ける諸個人の意識として考察する。即ち意識は歴史において活動する人間の存在のひとつの契機に過ぎず、それ自身社会的歴史的に規定されてゐる。マルクスもまた実践を強調してゐる。けれども彼のいふ実践は主観的な心理的な活動ではなく、却つてそれは労働として、現実的な人間の歴史的社会的に規定された活動である。そしてマルクスは、意識が存在を規定するのでなく、存在が意識を規定するのである、と主張する。即ち他のものが観念論の立場にあるに対して、マルクス主義は唯物論の立場に立つてゐる。これは最も決定的な相違である。第二に、マルクス主義はその唯物論的基礎のために、必然的に感覚乃至感性をその認識理論において重んじなければならない。しかるにこれまでの唯物論は、経験論もまた、感性を単に受動的な、受容的なものとのみ解してきた。そこでマルクスは記してゐる、あらゆる従来の唯物論の主欠陥は、対象、現実、感性がただ客観の或ひは直観の形式においてのみ把握されて、感性的・人間的な活動、実践として把握されず、主観的に把握されてゐないところにある。活動的な方面は抽象的に唯物論との対立においてむしろ観念論(このものはもちろん現実的な感性的な活動そのものを知らないのであるが)によつて展開された。しかるにマルクスは感性を能動的な、実践的な性質のものとして把握する。そしてこれは感性が彼において単に心理的な作用と考へられず、人間の存在のひとつの現実的な、具体的な存在の仕方と見られることによつて可能であつたのである。第三に、意識を歴史的社会的に規定されたものと解し、且つ存在が意識を規定するのであると説くことによつて、マルクス主義は認識の社会的規定性、進んでその階級性を主張する。認識は社会的意識として必然的に社会的存在を反映してゐる。そして人間の社会的存在を最も包括的に表現するところの名は階級であると考へるのである。

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