解釈学と修辞学 (三木 清)

ギリシア人の産出した文化の一つに修辞学がある。それはなかんずくアテナイ文化において――プラトンの伝えるようにアテナイ人は言葉を愛し、多く語ることを好んだ(φιλόλγός τέ καὶ πολύλογος)――極めて重要な位置を占めていた。しかし今日、修辞学はほとんどまったく閑却されている。アリストテレスの諸著作のうちでも修辞学に関する書は恐らく最も研究されないものに属している。これに対して現代の哲学においてはなはだ大きな意義を獲得するに至ったのは解釈学である。解釈学はもと文献学の方法であるが、今日それは哲学の一般的方法にまで拡げられ高められている。解釈学もギリシアの啓蒙時代に修辞学と結びついて成立したものであるが、それが独立の学として発達するに至ったのはアレクサンドリア時代の文献学においてである。言い換えれば、修辞学がギリシア文化の開花期の産物であるに反して、解釈学はギリシア文化の発展が一応終結した後その黄昏たそがれにいわゆるミネルヴァのふくろうとして現われたのである。そのことは解釈学の性質に相応している。すなわち解釈学はすでに作られたもの、でき上った作品に対して働く。すぐれた文献学者ベェクの言葉を借りれば、それは「認識されたものの認識」(das Erkennen des Erkannten)を目的としている。一般的にいえば、解釈学は過去の歴史の理解の方法である。これに反して修辞学はギリシアの活発な社会的実践的生活のさなかに発達させられたものである。解釈学が主として書かれた言葉、誌された文書に向うに反して、修辞学は主として話される言葉に属し、かつそれは法廷、国民議会、市場等における活動と結び付いて形成された。かくして解釈学も修辞学も共にロゴス(言葉)に関係するにしても、おのずからその性格、その実質を異にしている。

現代における解釈学の哲学への導入によって多くのことが為し遂げられたのは否定することができぬ。それは特に、従来の、自然科学に定位した方法ないし論理によっては考えられない人間および歴史に関する哲学の方面において功績があった。しかしまた今日、解釈学的方法に対する不満が広く感ぜられるようになってきたことも事実である。我々は解釈学の立場を超えることを要求されている、もとより我々は解釈学によって為された貴重な諸発見を無視することを許されない。かくのごとき状況において、久しく忘却されてきた修辞学に再び注目することは何らかの意義を有し得ないであろうか。修辞学を導き入れることによって現代の哲学に何らかの新しい道をひらくことが期待され得ないであろうか。我々が問題とするのはいうまでもなく方法としての修辞学、あるいは修辞学の論理そのものである。この場合、解釈学が哲学的方法としては言葉の解釈から現実の存在の解釈にまで転化発展させられたように、修辞学も哲学的論理としては単に言葉のみでなく現実の存在そのものに関係づけられることが必要である。

解釈学的方法に対する主要な反対は、それが理解の、したがってまた観想の立場に立って、行為の、ないしは実践の立場に立つものでないというところにある。この反対は、解釈学がもとすでに作られたものの理解の方法として発達させられたものである限り、当然である。解釈学は過去の歴史に対する場合自己の固有の力を感じることができる。解釈学が歴史の方法であるという場合、歴史とは出来上ったもの、過去の歴史を意味している。しかるに歴史というべきものは本来現在の歴史であり、我々自身が現在の行為において作るものであるとするならば、解釈学は歴史の論理として不十分であることを免れないであろう。解釈学は存在の歴史性について語っているが、歴史性とはこの場合主として過去から生成してきたということを意味している。解釈学は歴史的なものは表現的なものであるということを明らかにしたが、それは表現についても理解の立場に立って行為もしくは制作の立場に立つのではない。表現の概念は理解ないし観想の立場とつねに結びつくということはできぬ。ただ解釈学の立場においては前者は後者と密接に結びついている。ディルタイは体験、表現、理解という三つのものの内的な結合を考えたが、しかし表現そのものは単なる体験とは異なる行為の立場から、また単なる理解とは異なる制作の立場から考えられることができる。歴史性の意味が過去の歴史とその理解の立場から現在において歴史を作る行為の立場に移して考えられねばならぬように、表現の意味も解釈学的立場から離れて表現作用そのものの立場において捉えられねばならぬ。

この場合修辞学は我々に必要な手懸りを与え得るように思われる。修辞学は端的に表現に関係している。我々は表現するために修辞学を用いるのである。修辞学は表現の理解に関係するのでなく、かえって表現の作用に関係している。そこに元来ともにロゴス(言葉)に関係するものでありながら解釈学と修辞学との性格的な相違が認められる。次に修辞学は表現作用の立場に立つものとして表現の技術性について知らせる。修辞学は何よりも技術である。それは表現的であるためには技術的でなければならぬということを我々に教える。表現的なものは技術的であるということは、修辞学にとっていわば公理である。そしてそれは実に表現の本質に関わる重要な認識でなければならぬ。単に表現的な言葉のみではない、あらゆる表現的なものは技術的に形成されたものである。自然のごときも表現的なものとして技術的である。かの自然美の問題のごときも、自然の技術性を基礎とすることによって考えられ、かつこれと芸術美との統一も考えられることができるであろう。しかし修辞学はもとより単に美を目的とするものではない。修辞学はギリシアにおいて単に言葉の装飾や美化のためのものであったのでなく、むしろ社会的実践的な目的を有したのである。それはもと芸術と特殊の関係があったのでなく、むしろ社会的政治的活動と密接に結びついていた。市場や法廷や国民議会がギリシアにおける修辞学の固有の場所であった。表現論と審美主義とは分離することができ、また分離して考えられねばならぬ。修辞学は何か特別のものであるのではない。我々の言葉はすべて修辞学的である、言い換えれば技術的である。言葉は本来技術的なものである故に表現的なのである。修辞学は意識的に用いられるのみでなく、日常の言葉も無意識的にせよつねに何らか修辞学的である。言葉は人間の本質に属するといわれるが、そのことは表現性が人間存在の根本規定であること、そして人間存在の表現性はその技術性と一つのものであることを意味するのでなければならぬ。

ところで人間は技術的であることによってデカダンスに陥る危険を有している。この関係は修辞学において何よりも明瞭に認められるであろう。言葉のデカダンスとは、言葉がその本性すなわち存在を存在そのものから顕わにするという性質を逸して、存在との内的なつながりを失うことである。言葉は技術的であることによって空虚になり易い。プラトンは哲学者の眼をもって、当時の文化のうちに浸潤した修辞学に伴う種々の弊害を洞見し、仮借することなく批判した。しかし彼は、なかんずくパイドロスにおいては、ただ修辞学を非難するにとどまらないで、自分自身、哲学的な根柢に立つ新しい修辞学の綱要を描いている。これによれば、修辞学は一方では弁証論に、他方では心理学に基礎をおくことによって説得の技術としての目的を達することができる。話す人はまず、彼がそれについて話す物に関する真の認識を有しなければならぬ。この認識は弁証論によって得られるのである。修辞学が詭弁を意味すべきでないならば、弁証論は修辞学にとって自己の論拠の発見のために欠くべからざるものである。話す人は次に、聴く人の心理を理解しなければならぬ。彼は人間の心の差別、その性質の相違を知り、これに応じて説得に最も適した言葉を用いるように心掛けねばならぬ。修辞学は聴く人の心を言葉によって一定の方向に導くこと(ψυχαγωγία τις διὰ λόγων)であり、人間心理の把握はその基礎である。かくてプラトンによれば修辞学は論理であると同時に心理であるということができる。かかるものとしてそれは具体的な論理である。修辞学は心理と論理との統一として、言い換えれば主観的なものと客観的なものとの統一として技術に属するということができる。

プラトンがパイドロスの中で与えた示唆は、修辞学に対する一層積極的な評価のもとに、アリストテレスによって具体的に展開された。アリストテレスに従えば、修辞学は政治学――彼においては倫理学と政治学とは一つのものである――の孫である。修辞学は人間の社会的存在と密接な関係を有している。言葉は本来社会的なものであるとすれば、すべての言葉は本性上修辞学的でなければならぬ。現実の言葉は、一、話す人、二、それについて話されるもの、三、聴く人、という三要素を含み、これに構造づけられた一全体である。私がその人に向って話す相手が言葉のテロス(目的)である。言葉のテロスは私でなく、かえって聴き手すなわち汝である。私は聴き手を説得すること、その信を得ることを求め、そのために修辞学を必要とする。修辞学における信憑しんぴょうの根拠としてアリストテレスは三つのものを区別した。一、話し手のエートス(性格)による証明。その人の心根、性格が立派である場合、我々は容易に彼の言葉を信じる。言葉の有する信憑力は話し手の性格、その倫理性の如何に関係している。そこで話し手は言葉の技術によって自己のエートスに対する相手の信を作り出すように努める。二、聴き手のパトスによる証明。聴き手においてパトスが言葉によって動かされるとき、聴き手自身が証明の手段となる。話す人は言葉の技術によって相手を心の一定の状態におくように努める。三、ロゴスそのものによる証明。語ることは或るものについて語ることである限り、修辞学も一定の論理的証明を含まなければならぬ。修辞学は倫理学もしくは政治学の孫であるとともに弁証論の孫である、とアリストテレスはいっている。ところで演繹法と帰納法とは論理の二つの形式であるが、これに相応して修辞学においてはἐνθύμημαとπαράδειγμαとがある。前者エンチュメーマは修辞学的な推理(シュロギスモス)であり、後者パラデイグマすなわち例による証明は修辞学的な帰納法であると見られる。純粋な論理と修辞学的な論理との間に差異が存在するのは、修辞学が主として行為に関係し、行為は必然的なものでなくて大抵はそうある(ὡς ἐπὶ τὸ πολύ)ものであるのに基づいている。修辞学は行為に関して、一、勧告し、もしくは諫止すること、二、告訴し、もしくは弁護すること、三、称讃し、もしくは非難すること、を主題とする。かように行為に関係することによって修辞学には時間が属している。すなわちアリストテレスによれば、右の第一の種類は未来に、第二の種類は過去に、第三の種類は現在に関係している。そしてこれら三つの種類のものにおいて問題にされるのは、右の順序に従ってそれぞれ、一、利と害、二、正と不正、三、善と悪である。修辞学についてのアリストテレスの分析がいかに具体的な点に触れているかが知られるであろう。

かくして修辞学が単なる論理でないことは明らかである。言葉が単にロゴス的なものであるならば修辞学は存しない。修辞学は一面論理であるとともに他面心理である。ここに心理というのはパトス的なもののことである。修辞学は心理と論理との綜合であり、論理としては具体的な論理である。このような具体的な論理については、論理の基礎に関するかの心理主義と論理主義との論争のごときは無意味でなければならぬ。この論争そのものが抽象的であるといえる。修辞学は心理的に、言い換えればパトス的に制約されている。ひとが誰かを相手に話すとき、ひとは相手がいかなる心の状態にあるかを、彼の感情とか気分とかをほとんど無意識的に考慮し、言葉はこれによって規定される。ひとは単に相手のロゴス(理性)にでなく、また彼のパトス(情意)に訴える。ひとは相手を自分の意見に対して受取り易く、注意深くかつ好意的ならしめる――この三つの点は古代の修辞学者の掲げた伝統的な規定に属している――ために、言葉を技術的に用いる。アリストテレスが模範的に示したごとく修辞学はパトス論と密接な関係を含んでいる。修辞学は聴く人のパトスによって規定されるのみでなく、他方話す人自身のパトスによって規定される。それは各人のパトス、またエートスによって規定され、性格的なものである。性格というものは主としてパトス的なものである。かようにパトスないしエートスに基づくものとして修辞学は表現的である。修辞学は何よりも話す人の人間、性格、すなわち主体的なものを現わす。文は人なりというのはよく知られた格言である。修辞学を単に言葉の問題としてでなく思考の問題として見て――思考の仕方と言表の仕方との間における内面的な一致なしに真の修辞学は存しないであろう――、これと純粋に論理的な思考とを概念上区別するとき、論理的思考が対象的に限定された思考であるに反して、修辞学的思考は主体的に限定された思考である。前者が真理性(Wahrheit)に関わるに反して、後者は真実性(Wahrhaftigkeit)に関わる。すなわち修辞学においては単に論理性のみでなくまた倫理性が問題である。表現においては真理性でなくて純粋性(Echtheit)が問題であるといわれるのも、表現が主体的真実性に関わることによるのである。パスカルは書いている、「自然的なスタイルを見るとき、ひとはまったく驚喜する、なぜなら彼はひとりの著者を見ると思っていたのに、ひとりの人間に出会うからである」。一冊の書物を読んで、ひとりの著者でなくひとりの人間を見出すとき、我々の悦びは大きい。修辞学は抽象的な論理でなくて人間的な論理であり、それは心理と論理との統一であるように論理と倫理との統一である。そしてかくのごとくそれが主観的なものと客観的なものとの統一であるところに、修辞学が技術であるべき理由がある。けだし技術においては主観的なものが客観化され、客観的なものが主観化され、主観的なものと客観的なものとの統一ということが技術の本質である。

修辞学はもとより単に心理の技術ではない。それはすでに言葉という或る物質的なものを支配しなければならぬ。しかも修辞学は単に言葉の技術でなくて同時に思考の技術である。プラトンが考えたように修辞学の根柢には論理がなければならず、アリストテレスがいったように修辞学は弁証論の孫である。言葉と思考とはもと一つのものである。思考の真に基づかないようなものは真の修辞学ではない。パスカルは雄弁についていっている、「快適と真とが必要である、しかもこの快適はそれ自身真から取って来られたのでなければならぬ」。真であるためには、ひとは論理的に思考せねばならぬ。しかし修辞学は論理を包む外套のごときものでなく、真の修辞学は言葉の形式と思考の形式との内面的統一に存するとすれば、修辞学的思考は純粋に論理的な思考から概念上区別されることができる。アリストテレスは修辞学の主題は行為であるという極めて重要な見解を述べている。修辞学は物についての思考であるよりも行為についての思考である。言葉は元来社会的な行為に関するものである。物についての思考も社会的に伝えられることを欲する限り、なかんずくそれが人間の行為に関係するものである限り、何らか修辞学的であることを要求されている。修辞学的思考にとって固有な領域は物でなくて行為である。ただアリストテレスは行為を十分主体的に捉えず、なお対象的客体的に見た。そのために彼は、行為は必然的なものでなくて大抵そうあるものであり、修辞学的推理すなわちエンチュメーマも必然的なものからの推理でなくて蓋然的がいぜんてきなもの(τό εἰκός)からの推理であると考えざるを得なかったのである。しかるに行為は単に客観的に捉えられ得るものでなく、かえって行為は主観的にして客観的なものであり、かかるものとしてその本質において技術的なものである。行為は技術的なものである故に、行為に関わる修辞学は技術的なものであり、修辞学の論理は行為の論理そのものを現わすと考えることができる。しかし修辞学は論理でなくて直観に属するといわれるであろう。論理の根柢には直観がなければならぬとすれば、何よりも修辞学的論理の根柢には直観がなければならぬであろう。具体的な論理は論理と直観との綜合であり、もしくは直観そのもののうちにすでに論理が含まれているのでなければならぬ。右に述べたごとく修辞学はロゴス的なものとパトス的なものとの統一であるが、かかる統一はいかに与えられるであろうか。両者は対立物の統一として弁証法的統一をなすといっても、弁証法の根柢には弁証法的直観がなければならぬと考えられるであろう。修辞学の論理は行為的直観の論理を現わすということができる。ところでロゴスとパトスとの統一は構想力において与えられている。フンボルトによれば、構想力は矛盾する性質を結合し得る我々の唯一の能力である。それは矛盾する本性を突然の奇蹟によってのごとく驚くべき調和にもたらし、かつそれはイデーから借りて来られたのでなくて感性の中から生まれた、しかもイデー的な形像を作り出すことによってそのことを為すのである。修辞学の論理は根本において構想力の論理でなければならぬ。そしてこれは言葉の根源が構想力に関わるということに相応している。フンボルトによれば、言葉は人間の感性的・精神的本性の現われである。言葉と一つのものと考えられる精神というのは彼において構想力のことであるといい得る。そして修辞学がその端初の本質に従って芸術の領域から行為の領域へ連れ戻されねばならぬように、構想力の論理も美学の領域から倫理学(政治学)の領域へ連れ戻されねばならぬ。行為的直観の論理は構想力の論理であるであろう。かくのごとき修辞学の論理の構造を解釈学の論理に対してさらに一層明瞭に規定することが要求されている。

私は従来種々の場合に現代哲学における解釈学の論理が有機体説にほかならぬことを論じてきた。これはその成立の歴史的事情から考えてすでにそうである。解釈学はその対象である表現の構造を有機的なものと見るのみでなく、表現と理解、表現と体験の関係をも連続的融合的に見ている。理解の概念は体験の概念と、したがってまた経験の概念と結びつく、故に客観である表現と主観に属する理解ないし体験との間には真の意味における関係が存しない。すなわち経験という場合客観をどこまでも自我に引寄せて考えることが可能であるに反し、関係という場合関係するのは本来独立のものでなければならぬ、あるいは経験という場合その関係は出来事の意味を有しない、出来事は独立のものの間の関係として生じる。解釈学の論理がなお経験の論理であるに反して、修辞学の論理は関係の論理であり、出来事の論理である。修辞学は私と汝の関係を基礎としている。私に対して汝が独立のものでないならば修辞学というものはないであろう。また私に対する汝が独立のものでないならば修辞学が技術であるということはないであろう。ひとは技術によって対象を支配するといわれるが、支配という言葉は対象が否定的に(敵対的に)対立することを現わしている。もとより技術は単に対象を支配するのではない、技術において対象を支配することは対象と協同することである、対象との協同なしにはいかなる技術も存し得ない。技術は支配であるとともに協同である。技術における支配と協同との弁証法的統一は技術的に形成される形、この超越的なもの、このイデー的なものにおいて成就されるのである。

修辞学は人と人との関係の上に立つものとして根源的に社会的である。それ故に修辞学は単に論理的でなくまた倫理的であり、その証明は倫理的証明を含むということができる。かような証明の要素は真実性である。「ひとつの理由はしばしば論理的なものとしてでなくむしろ劇的なものとして、言い換えれば、それが主張する者の性格を有するという故で、それが彼自身の奥底から生まれたという故で、好いということがある。なぜなら ad hominem の論証が存するように ex homine の論証が存するからである」、とジューベールは書いている。その思考が性格的(ex homine)であって、彼の人間の真実を現わしているとき、ひとは説得される。一般的な理由はひとを屈服させることができるにしても、心服させることはできぬ。修辞学はつねに一般的なものの特殊化を求め、一般と特殊との綜合としてそれは表現的である。我々は自分の理由によって他の者を屈服させることができるにしても、彼自身の理由によってのほか他の者を心服させることができない。したがって修辞学は相手の人間の心理や性格を考慮し(ad hominem)、彼らがそこに彼ら自身の理由を見出すようにしなければならぬ。この場合他の者において前提されるのは彼らの真実性である。そして我々の真実性のみが彼らの真実性を喚び起し得るであろう。しかしながらいかなる根拠に基づいて話す人と聴く人とは一致し得るであろうか、その一致が単に主観的なものに過ぎぬものでないということはいかにして可能であろうか。もしも問題が非人格的な対象的な真理に関わるのであるならば、かような一致の根拠は対象そのものの有する客観性に存すると考えることもできるであろう。けれども問題が人間的な行為的な真理に関わりその思考が性格的であることを本性とする修辞学の場合にあっては、解決は単にその方面に求められることができぬ。話す人と聴く人とが社会的にパトスをともにするということは一致のひとつの根拠であるに相違ないが、それのみでは客観性の保証は与えられていないであろう。修辞学的思考の客観性、単なる客観性以上の、単に論理的な思考の客観性よりもさらに深い意味における客観性の根拠はどこに存するのであろうか。それは社会のうちにあると考えるのみでは不十分である、一致の客観性の根拠は、聴く者がただ聴く者でなくまた語り得る者であり、そして逆に語る者がただ語る者でなくまた聴き得る者であるというところに存している。語る者に対して聴く者は単に聴くのみでなく、みずからも語り得る者、すなわち独立のものでなければならない。汝とはただ聴く者でなく同時にまた自身語り得る者のことである。聴く者が同時に語り得る者であるということは、彼が語る者に対して否定の可能性を有する者であるということを意味している。かくのごとき汝に対してのみ私は真に私であり、したがって語る者は単に語るのみでなくまた聴き得る者であり、かくしてまた自己否定の可能性を有する者でなければならない。すなわち修辞学の論理は弁証法である。人間はどこまでも社会的であるとともに、この社会においてどこまでも独立のものであるということが修辞学的思考の基礎である。

修辞学は弁証法を根柢とする形の論理である。修辞学的な形は弁証法的な形である。かかるものとしてそれは単に私に属することなき超越的なものである。「魂が語るや、すでにもはや魂は語らない」(Spricht die Seele, so spricht, ach, schon die Seele nicht mehr.)。言葉がロゴスといわれるのは、それがパトスに対する意味におけるロゴスであることをいうのでなく、かえってそれが超越的なイデー(形)であることを意味するのでなければならぬ。解釈学はディルタイにおいてのごとく全体性の概念を明らかにしたが、その全体性は、その内在論の立場とも関連して、自我ないし体験の全体性の領域に近くとどまっているに反し、最近のゲシュタルト心理学においては全体性は対象的なもの、客観的なもの、したがってまた或る超越的なものと見られていると考え得るとすれば、(Vgl. Martin Scheerer, Die Lehre von der Gestalt, 1931.)、修辞学の論理はかくのごとく解釈学的立場の内在論を破って超出するものでなければならぬ。言葉は人と人との「間に」落ちる、それは私と汝との間における出来事である。言葉は単にロゴス的なものでなく、かえってエルトマンが言葉についてその概念的内容、副意味、感情的価値あるいは気分的内容という三つのものを区別しているように、(Karl, Otto Erdmann, Die Bedeutung des Wortes, Dritte Auflage 1922.)、言葉は根本においてロゴス的意味とパトス的意味とを含むと考えることができ、また言葉は純粋な精神でなく、かえってシュナイデルのいうように言葉において言葉の体(Wortleib)と言葉の心(Wortseele)とを区別することもできる(Wilhelm Schneider, Kleine deutsche Stilkunde, Dritte Auflage 1929.)。まさにかかるものとして言葉は表現的である。言葉の精神と考えられる構想力はロゴスとパトスとの統一をいわばロゴスの勝利としてイデー的なものにおいて形成する作用であり、かくのごとき構想力は本来超越的なものでなければならぬ。言葉は私に属しあるいは汝に属するというよりも私と汝との「間に」おける出来事として、汝と私とを関係づける一般者と考えられる社会の表現である。社会は語るものであるとともに聴くものである、言葉は社会から出て社会に落ちる。しかし社会は自己を言葉において表現することによって自己を個人において表現する。人間は言葉とともに社会から、しかも独立のものとして生まれるのである。人間は社会であると同時に個人であるごとく、言葉は社会的なものであると同時に個人的なものである。言葉は人間存在の社会性の基礎であるとともにその個人性の基礎である。私は汝に対して語り、汝に対して自己を表現するのであり、汝は私に対して表現的なものである。すべて表現的なものは表現的なものに対して表現を行なうというのが表現の根本的構造である。しかるにこのような表現の根本的構造は単に人と人との関係においてのみでなく、また人と物との関係においても存在している。修辞学における現実の言葉の要素として話す人、聴く者、それについて話される物が挙げられたが、この第三の要素すなわちそれについて話されるものも本来他の要素とともに表現的なものであり、表現作用の関係のうちに入っている。表現的なものが表現的な我々の言葉を喚び起すのである。認識といわれるものも根本においては表現作用の一つにほかならない。全く無意味な物に向って我々の認識作用が働くということは不可能であって、物は何らかの意味――それが物理学的意味のごときものであるにしても――を表現するものとして我々に呼び掛けるところから我々の認識作用が始まるのである。すべての認識(Erkennen)はかくのごとき表現的なものの承認(Anerkennen)である。認識が承認であるというには、その対象は認識作用から独立のものでなければならず、表現的なものはかかるものとして認識である表現作用を喚び起すのである。表現的なものは承認の要求を含み、汝の性格を具えている。修辞学の固有の領域は単なる物でなくて行為であるということによってかくのごとき関係は最も具体的である。修辞学においては論理と倫理とは一つのものである。かくして表現的なものは表現的なものに対し、表現は表現を喚び起し、すべては表現的世界においてある。表現的なものは自己を表現すると同時にすべて世界を表現し、かくして相互に表現し合っている。表現的世界というのは単に芸術的世界というがごときものでなく、かえって日常的世界が表現的であるのである。修辞学は日常的なものである。歴史的世界といっても日常的世界を離れてあるのではない。解釈学は歴史的意識を明らかにしたと称せられるが、しかしそれは理解の立場に立って行為の立場に立つことなく、出来事としての歴史の意味を明らかにすることができなかった。修辞学の論理は解釈学に欠けていた社会的意識を獲得するのみでなく、修辞学の論理は歴史的世界の論理を具体的に解明するであろう。

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