さらに私は、物体のいかなる部分も他のなにほどか遠く隔っている部分によって、たといこのいっそう遠く隔っている部分が何ら動かないにしても、その間に横たわっている部分のうちの何らかのものによってまた同じ仕方で動かされ得るのでないと、動かされ得ないということが、物体の本性であるのを認めるのである。すなわち、例えば、A・B・C・Dなる綱において、その最後の部分Dが引かれる場合、最初の部分Aは、最後の部分Dが動かないままに止まっていて中間の部分のうちの一つBあるいはCが引かれた場合にまたそれが動かされ得るのと別の仕方で動かされないであろう。これと同様の理由によって、私が足の苦痛を感覚する場合、自然学は私に、この感覚は足を通じて拡がっている神経の助けによって生ずるのであって、この神経は、そこから脳髄へ連続的に綱のごとくに延びていて、足のところで引かれるときには、その延びている先の脳髄の内部の部分をまた引き、このうちにおいて、精神をして苦痛をばあたかもそれが足に存在するものであるかのごとくに感覚せしめるように自然によって定められているところの或る一定の運動を惹き起すのである、ということを教えるのである。しかるにこれらの神経は、足から脳髄に達するためには、脛、腿、腰、脊及び頸を経由しなくてはならぬゆえに、たといこれらの神経の足のうちにある部分が触れられなくて、ただ中間の部分の或るものが触れられても、脳髄においては足が傷を受けたときに生ずるのとまったく同じ運動が生じ、そこから必然的に精神は足においてそれが傷を受けたときのと同じ苦痛を感覚するということが起り得るのである。そして同じことが他のどのような感覚についても考えられねばならない。
最後に私は、直接に精神に影響を与えるところの脳髄の部分において生ずる運動のおのおのは、精神に或る一定の感覚をしかもたらさないのであるからして、この場合、この運動が、それのもたらし得るあらゆる感覚のうち、健康な人間の保存に最も多くかつ最もしばしば役立つところのものをもたらすということよりもいっそう善いいかなることも考え出され得ないということを認めるのである。しかるに経験は自然によって我々に賦与せられたすべての感覚がかくのごとき性質のものであることを証している。従ってそのうちには神の力並びに善意を証しない何物もまったく見出されないのである。かようにして、例えば、足のうちにある神経が激しくそして通例に反して動かされるとき、その運動は、脊髄を経て脳髄の内部の部分に達し、そこにおいて精神に或るものを、すなわち苦痛を、あたかも足に存在するもののごとくに、感覚せしめるところの合図を与え、これによって精神は苦痛の原因をば足に害をするものとして自分にできるだけ取り除くように刺戟せられるのである。もっとも、人間の本性は、この脳髄における同じ運動が精神に何か他のものを示すように、すなわちあるいはこの運動そのものを、脳髄にある限りにおいて、あるいは足にある限りにおいて、あるいは両者の中間の場所のうちのどこかにある限りにおいて、示すように、あるいは最後に何かもっと他のものを示すように、神によって仕組まれることができたであろう。しかしながらこれらの他のいずれのものも身体の保存に右にいったものと同等に役立たなかったであろう。同じように、我々が飲料を必要とするとき、これによって或る種の乾きが咽喉に起り、その神経を動かし、そしてこの神経を介して脳髄の内部を動かし、そしてこの運動は精神に渇きの感覚を生ぜしめる。なぜなら、この全体のことがらにおいて、健康状態の維持のために我々は飲料を必要とすることを知るということよりも、我々にとっていっそう有用なことは何もないのであるから。そしてその他の場合についても同様である。
これらのことから、神の広大無辺なる善意にもかかわらず、精神と身体とから合成せられたものとしての人間の本性が、時には欺くものであらざるを得ないことは、まったく明白である。というのは、もし或る原因が、足においてではなく、神経が足からそこを経て脳髄へ拡がっている部分のうちのどこかにおいて、あるいは脳髄そのものにおいてさえも、足が傷を受けたときに惹き起されるのを常とするのとまったく同じ運動を惹き起すならば、苦痛はあたかも足にあるもののごとくに感覚せられ、かくして感覚は自然的に欺かれるから。なぜなら、この脳髄における同じ運動はつねに同じ感覚をしか精神にもたらすことができず、そしてこの運動は他のところに存在する他の原因によってよりも足を傷つける原因によって遥かにしばしば惹き起されるのをつねとするゆえに、この運動が他の部分の苦痛よりもむしろ足の苦痛を精神につねに示すということは、理に適ったことであるからである。またもし時に咽喉の乾きが、通例のごとく身体の健康に飲料が役立つということからではなく、かえって水腫病において起るごとく、或る反対の原因から惹き起されるならば、それがこの場合に欺くということは、反対に身体が健全な状態にあるときにつねに欺くということよりも、遥かにいっそう善いことである。そしてその他の場合についても同様である。
ところでこの考察は、単に私の本性が陥り易いすべての誤謬に気づくためにのみでなく、またこれらの誤謬を容易に匡しあるいは避け得るために、はなはだ多くの貢献をするのである。なぜなら実に、私はすべての感覚が身体の利益に関することがらについて偽よりも真を遥かにしばしば指示することを知っているし、また私は或る同じものを検査するためにほとんどつねにこれらの感覚の多くを使用することができるし、そしてその上に、現在のものを先行のものと結合するところの記憶や、すでに誤謬のすべての原因を洞見したところの悟性をも使用することができるからして、もはや私は毎日感覚によって私に示されるものが偽でありはしないかと恐れることを要せず、かえって過ぐる日の数々の誇張的な懐疑は、笑に値するものとして、追い払わるべきであるからである。これはとりわけ私が覚醒から区別しなかったところの夢についての極めて一般的な懐疑がそうである。というのは、私は今、両者の間には、夢に現われるものは決して、醒めているときに起るもののように、生涯の余のすべての活動と記憶によって結び附けられないという点において、非常に大きな差別があることを認めるからである。なぜなら実に、もし何者かが、私の醒めているときに、夢において起るごとく突然に私に現われ、そしてすぐ後に消え失せ、かくしてもちろんこの者がどこから来たのかもどこへ去ったのかもわからなかったならば、私がこの者を真実の人間であると判断するよりもむしろ幽霊、または私の脳裡で作られた幻想であると判断するのは、不当ではないであろうから。しかしながら、それがどこから来たか、どこにあるかという場所、またそれがいつ私にやってきたかという時間を私が判明に認めるところの、そしてそれについての知覚を何らの中断もなしに全生涯の他の時期と私が結び附けるところのものが起るときには、それが夢においてではなく、醒めているときに起っていることは、私にまったく確実である。またかかるものの真理について私は、もし、それを検査するためにすべての感覚、記憶及び悟性を召喚した後に、そのうちのいずれによってもその他のものと矛盾するいかなることも私に知らされないならば、わずかなりとも疑うことを要しないのである。なぜなら、神は欺くものではないということから、かかるものにおいて私は過たないということが一般に帰結するからである。しかしながら行動の必要はつねにかように厳密な検査の余裕を与えないゆえに、人間の生活は特殊的なものに関してしばしば誤謬に陥り易いことを告白しなければならず、そして我々の本性の弱さを承認しなければならないのである。
幾何学的な仕方で配列された、神の存在及び霊魂と肉体との区別を証明する諸根拠
定義
一 思惟(cogitatio)という語によって私は、我々がそれを直接に意識しているというふうに我々のうちにあらゆるものを包括する。かくして意志、悟性、想像力、及び感覚のすべての働きは、思惟である。しかし私は、思惟から帰結されてくるものを除外せんがために、直接に(immediate)という語を附け加えた。例えば、有意運動はたしかに思惟を原理として有するが、それ自身はしかし思惟ではない。
二 観念(idea)という語によって私は、その直接の知覚によって私がその同じ思惟自身を意識している、おのおのの思惟の形相(forma)を理解する。かくてすなわち私は、私が言うところのものを私が理解しているとき、まさにこのことからその言葉によって表わされたものの観念が私のうちにあることが確かであるのでなくては、言葉によって何ものも表現することができないのである。そしてかようにして私は想像のうちに描かれた単なる像を観念と呼ぶのではない、否、私はここでかかるものを、それが身体的な想像のうちに、言い換えると脳の或る部分のうちに描かれている限りにおいては、決して観念とは呼ばず、ただそれが脳のその部分に向けられた精神そのものを形作る限りにおいて、観念と呼ぶのである。
三 観念の客観的実在性(realitas objectiva ideae)ということによって私は観念によって表現されたものの実有性(entitas)を、それが観念のうちにある限りにおいて、理解する。そして同じ仕方で、客観的完全性、あるいは客観的技巧、等々、と言われることができる。というのは、観念の対象のうちにあるもののように我々が知覚するあらゆるものは、観念そのもののうちに客観的にあるのであるから。
四 同じものは、それが観念の対象のうちに我々がそれを知覚する通りに現われている場合、観念の対象のうちに形相的に(formaliter)あると言われる。また、その通りにではないが、かえってこれを補うことができるほど大きなものである場合、優越的に(eminenter)あると言われる。
五 我々が知覚する或るもの、言い換えると、その実在的な観念が我々のうちにある或る固有性、あるいは性質、あるいは属性が、それのうちに直接に内在する基体(subjectum)、あるいはそれらを存在せしめるあらゆるもの(res)は、実体(substantia)と呼ばれる。また厳密な意味における実体そのものについて我々は次のごとき観念しか有しない。すなわち、実体とは、我々が知覚するところの或るものが、つまり我々の観念のいずれかのうちに客観的にあるものが、そのうちでは形相的に、もしくは優越的に存在するところのものである。無は何ら実在的な属性を有し得ないことは、自然的な光によって知られているゆえに。
六 思惟がそれに直接に内在する実体は精神(mens)と呼ばれる。私はここで霊魂(amima)というよりもむしろ精神と言う。霊魂といふ語は両義的であって、しばしば物体的なものに適用されるからである。
七 場所的延長及び延長を前提する偶有性、例えば形体、位置、場所的運動、などの直接の基体である実体は、物体(corpus)と呼ばれる。しかし精神及び物体と呼ばれるものが、一つの同じ実体であるか、それとも二つの相異なる実体であるかは、後に攷究しなければならないであろう。
八 この上なく完全であると我々が理解し、そしてそのうちに何らかの欠損あるいは完全性の制限を含む何ものもまったく我々が把捉しない実体は、神(Deus)と呼ばれる。
九 或るものが何らかのものの本性あるいは概念のうちに含まれると、我々が言うとき、そのものがこのものについて真であると、あるいはこのものについて肯定され得ると、言うのと同じである。
一〇 その一が他を離れて存在し得るとき、二つの実体は実在的に区別されると言われる。
要請
第一に、私は、読者が自分の感覚をこれまで信用した根拠がいかに薄弱なものであるか、またその上に築いたすべての判断がいかに不確実なものであるかに注意せられるように、そしてこのことを長い間またしばしば自分の心に思いめぐらし、かくて遂に自分の感覚にもはやあまり多く信頼しない習慣を得られるやうに、要請する。というのはこれは形而上学に関する事がらの確実性を知覚するために必要であると私は判断するから。
第二に、私は、読者が自分自身の精神並びにその全体の属性を考察せられるように、要請する、これらについては、たとい自分の感覚によってかつて受取ったすべてのものが偽であると仮定しても、疑うことができないことを認められるであろう。そして私は、読者が精神を明晰に知覚し、そしてそれがすべての物体的なものよりも認識するにいっそう容易であると信じる習慣を得るまでは、精神を考察することを止められないように、要請する。
第三に、それ自身によって知られ、読者が自分において発見するところの命題、例えば、同じものは同時に有ると共にあらぬことはできぬ、また、無はいかなるものの動力因であることも不可能である、及びこれに類する命題を、注意深く考量し、そしてかようにして自然によって自分に賦与されている、しかし感覚の表象が極めてはなはだしく混乱させ不分明にするのをつねとするところの悟性の明瞭さを、純粋に、感覚から解放して、使用するように、私は要請する。なぜならかような仕方で読者にとって後述の諸公理の真理は容易に明かになるであろうから。
第四に、私は、読者がそのうちには多くの同時に有する属性の複合が含まれるところの本性の観念を検討するように、要請する、すなわち、三角形の本性、正方形のあるいは何か他の図形の本性、さらにまた精神の本性、物体の本性、そして何よりも神あるいはこの上なく完全な実有の本性はかかる性質のものである。そして読者が、かかる本性のうちに含まれることを我々が知覚するところのすべてのものは、実際にそれらのものについて肯定せられ得ることに注意するように、私は要請する。例えば、三角形の本性のうちにはその三つの角は二直形に等しいということが含まれ、また物体すなわち延長を有するもののうちには可分性が(というのはそれを少くとも思惟によって分割し得ないほど小さな延長を有するものを我々は何ら考え得ないから)含まれるゆえに、すべての三角形の三つの角は二直角に等しい、またすべての物体は可分であると言うのは真である。
第五に、私は、読者がこの上なく完全な実有の本性の観想に長くまた多くとどまるように、要請する、そして中にも、あらゆる他の本性の観念のうちにはたしかに可能的存在が含まれるが、神の観念のうちにはしかし単に可能的存在のみではなく、また実に必然的存在が含まれることを考察するように、要請する。なぜなら、ただこのことから、そして何等まわりくどい議論なしに、神が存在することを読者は認識するであろう、そしてそれは読者にとって、二が偶数であり、あるいは三が奇数であること、及びこれに類することに劣らず、それ自身によって明かであるであろう。というのは、或る人々にはそれ自身によって明かであることがらであるのに、他の人々には長々しい議論によってでないと理解せられないものがあるからである。
第六に、私は、読者が私の省察のなかで挙げたところの、明晰で判明な知覚のすべての例、さらにまた不明瞭で不分明な知覚のすべての例を熟考することによって、明晰に認識せられるものを不明瞭なものから直別することに慣れるように、要請する。なぜなら、これは規則によってよりも例によっていっそう容易に学ばれるから、そして私はかしこでこのことがらのすべての例を説明したか、あるいは少くとも或る程度触れておいたと思う。
第七に、そして最期に、私は、読者が明晰に知覚したもののうちには決して何等の虚偽も発見せず、反対にただ不明瞭に把捉したもののうちには偶然によるほか何らの真理も見出さなかったことに注意することによって、単に感覚の先入見に基づいて、あるいは何か知られていないものを含む仮説に基づいて、純粋な悟性によって明晰にかつ判明に知覚せられるところのものに疑いをいれることは、まったく不合理であるということを考察するように、要請する。なぜなら、かようにして読者は容易に後述の諸公理を真で疑われないものとして認めるであろうから。もっともたしかに、そのうちの多くは、いっそうよく説明せられることができたであろうし、またもし私がいっそう厳密であることを欲したならば、公理としてよりむしろ定理として提示せられねばならなかったであろう。
公理あるいは共通概念
一 何故に存在するかの原因を尋ねられ得ないような何物も存在しない。なぜなら、これは神そのものについて尋ねられ得るから、神は存在するために何らかの原因を必要とするというのではなく、かえって神の本性の無辺性そのものが存在するために何らの原因をも必要としない原因あるいは根拠であるゆえにである。
二 現在の時は最近接的に先行する時に依存しない、従ってものを維持するためには、それを初めて作り出すためによりもいっそう小さい原因が要求せられるのではない。
三 いかなるものも、またもののいかなる現実的に存在する完全性も、無(nihil)すなわち存在しないものを、自己の存在の原因として有することができぬ。
四 或るもののうちに有するいかなる実在性すなわち完全性も、このものの第一のかつ十全的な原因のうちに形相的に、あるいは優越的に存する。
五 そこからしてまた、我々の観念の客観的実在性は、この同じ実在性をば単に客観的にではなくて形相的に、あるいは優越的に含むところの原因を必要とするということが、帰結する。そしてこの公理は、ただこの一つのものに、感覚的な並びに非感覚的なあらゆるものの認識が依存するというほど、認められることが必要であることに、注目しなければならない。なぜなら、どこから我々は、例へば、天が存在することを知るのであるか。それを我々が見るゆえにであろうか。しかるにこの視覚は、観念である限りにおいてのほか、精神に触れない、ここに観念と言うのは、精神そのものに内属するものをいうのであって、室想のうちに描かれた像をいふのではない。そしてこの観念に基づいて我々が天は存在すると判断することができるのは、ただ、あらゆる観念は自己の客観的実在性の実在的に存在する原因を有しむければならぬという理由によるのである。そしてこの原因は天そのものであると我々は判断するのである。その他の場合についても同様てある。
六 実在性の、すなはち実有性の、種々の度がある。なぜなら、実体は偶有性あるいは様態よりもいっそう多くの実在性を有し、また無限な実体は有限な実体よりもいっそう多くの実在性を有するから。従ってまた実体の観念のうちには偶有性の観念のうちによりもいっそう多くの客観的実在性が有し、また無限な実体の観念のうちには有限な実体の観念のうちによりもいっそう多くの客観的実在性が存する。
七 思惟するものの意志は、たしかに有意的にかつ自由に(なぜならこれは意志の本質に属するのであるから)、しかしそれにもかかわらず謬ることなく、自分に明晰に認識せられた善に赴く。従って、もし自分に欠けている何等かの完全性を知るならば、それを直ちに、もしそれが自分の力の及ぶところにあるならば、自分に与えるであろう。
八 いっそう大きなことあるいはいっそう困難なことを為し得るものは、またいっそう小さいことをも為し得る。
九 実体を創造しあるいは維持することは、実体の属性すなわち固有性を創造しあるいは維持することよりも、いっそう大きなことである。しかしながら、既に言ったごとく、同じものを創造することは、それを維持することよりも、いっそう大きなことではない。
一〇 あらゆるものの観念あるいは概念のうちには存在が含まれる。なぜなら我々は存在するものの相のもとにおいてでなければ何物も把捉し得ないのであるから。もとより、制限せられたものの概念のうちには可能的あるいは偶然的存在が含まれ、しかしこの上なく完全な実有の概念のうちには必然的にして完全な存在が含まれる。
定理一
神の存在はその本性の単なる考察から認識せられる。
証明
或るものが何らかのものの本性あるいは概念のうちに含まれると言うことは、そのものがこのものについて真であると言うことと、同じである(定義九によって)。しかるに神の概念のうちには必然的存在が含まれる(公理一〇によって)。ゆえに神について、神のうちには必然的存在が存する、あるいは神は存在する、と言うことは真である。
しかるにこれは、既に上に第六駁論に応えて私が用いたところの三段論法である。そしてその結論は、要請五において言われたように、先入見から解放せられている人々に対してはそれ自身によって明かなものであり得る。しかしかような明察に達することは容易でないゆえに、我々は同じことを他の仕方で追求することを試みよう。
定理二
神の存在は単にその観念が我々のうちにあるということから、ア・ポステリオリに証明せられる。
証明
我々の観念のいかなるものの客観的実在性も、この同じ実在性をば単に客観的にではなく、形相的に、あるいは優越的に、含むところの原因を必要とする(公理五によって)。しかるに我々は神の観念を有する(定義二及び八によって)、そしてこの観念の客観的実在性は形相的にも優越的にも我々のうちに含まれない(公理六によって)、またそれは神そのもののうちにのほか他のいかなるもののうちにも含まれることができない(定義八によって)。ゆえに我々のうちにあるところのこの神の観念は、神を原因として必要とする、従って神は存在する(公理三によって)。
定理三
神の存在はまたその観念を有するところの我々自身が存在するということからも証明せられる。
証明
もし私が私自身を維持する力を有するならば、なおさら私はまた私に欠けているところの完全性を私に与える力を有するであろう(公理八及び九によって)。なぜならこれらの完全性は単に実体の属性であり、私はしかるに実体であるから。しかしながら私はこれらの完全性を私に与える力を有しないのである、なぜなら、さもなければ私は既にそれらを有しているであろうから(公理七によって)。ゆえに私は私自身を維持する力を有しない。
次に、私は、私が存在する間は、もし実に私がその力を有するならば、私自身によって、あるいはその力を有する他のものによって、維持せられるのでなければ、存在することができぬ(公理一及び二によって)。ところで私は存在するが、しかもまさにいま証明せられたように、私自身を維持する力を有しない。ゆえに私は他のものによって椎持せられる。
なおまた、私を維持するものは自己のうちに、私のうちにある一切を形相的に、あるいは優越的に、有する(公理四によって)。しかるに私のうちには私に欠けているところの多くの完全性の知覚と同時に神の観念の知覚が存する(定義二及び八によって)。ゆえにまた私を維持するもののうちにも同じ完全性の知覚が存する。
最後に、この同じものは、自己に欠けているところの完全性の、すなわち自己のうちに形相的にあるいは優越的に有しないところの完全性の、知覚を有し得ない(公理七によって)。なぜなら、既に言われたごとく、このものは私を維持する力を有するからして、なおさらかかる完全性を、もし欠けているならば、自分に与える力を有するであろうから(公理八及び九によって)。しかるにこのものは、いましがた証明せられたように、私に欠けていてただ神のうちに存し得ると私が考えるところのすべての完全性の知覚を有する。ゆえにこのものはそれらの完全性を形相的にあるいは優越的に自己のうちに有し、かくして神である。
系
神は天と地と及びそのうちに存する一切を創造した。なおまた神は我々が明晰に知覚するあらゆるものを我々がこれを知覚する通りになし得る。
証明
このすべては前の定理から明晰に帰結する。すなわちこの定理において神の存在することが、我々のうちにその或る観念の有するすべての完全性が形相的にあるいは優越的にそのうちに存するところの或る者が存在しなくてはならぬということから証明せられた。しかるに我々のうちにはあるいとも大きな力の、すなわちただこの力がそのうちに存するところのものによって、天と地、等々が創造せられ、また私が可能なものとして理解する他のすべてのものもこの同じものによって作られ得るというほど大きな力の観念が存する。ゆえに神の存在と同時にこのすべてがまた神について証明せられたのである。
定理四
精神と身体とは実在的に区別せられる。
証明
我々が明晰に知覚するあらゆるものは、神によって、我々がこれを知覚する通りに、作られ得る(前の系によって)。しかるに我々は精神を、言い換えると、思惟する実体をば、物体を離れて、言い換えると、何等かの延長を有する実体を離れて、明晰に知覚する(要請二によって)。また逆に物体をば精神を離れて知覚する(すべての人々が容易に認容するごとく)。ゆえに、少くとも神の力によって、精神は身体なしに存することができ、また身体は精神なしに存することができる。
ところでいま、その一が他を離れて有し得るところの実体は、実在的に区別せられる(定義一〇によって)。しかるに精神と物体とは実体であり(定義五、六、七によって)、そしてその一は他を離れて存することができる(たったいま証明せられたごとく)。ゆえに精神と身体とは実在的に区別せられる。
註。私はここで神の力を媒介として使用したが、それは精神を身体から分離するために何らかの異常なカが必要であるからではなく、かえって私は前の諸定理においてただ神についてのみ取扱ったからして、他に使用し得るものを有しなかったゆえである。またいかなる力によって二つのものが分離せられるかは、両者が実在的に異なっていると我々が認識するためには、無関係である。