――哲学界に与うる書――
時代は行動を必要とする、あらゆるものが政治的であることを要求している。このときしかし、哲学するということは、およそ人間の生存理由もしくは意義をなし得るであろうか。人間の「レエゾン・デエトル」として、哲学はいかなるものであるべきであろうか。これは現代において、すべての哲学者にとって、最も切実な問題でなければならぬ。哲学が学問としていかなるものであるべきかということも、かようなレエゾン・デエトルとしての哲学の問題に従属し、それとの関連において初めて具体的に答えられ得るはずだ。
しかるにわが国の哲学は今に至るまでかくのごとき問題をあからさまに問題にしたことがない。そしてそれこそ「哲学的精神」の根本的な窮乏を語るものである。なるほど、日本の哲学は、知識としては十年前とは比較にならぬくらい発達した。けれど今日、哲学に従事する者自身ですら誰も、哲学が隆盛だとは信じていないのである。悪いことには、なまじっか哲学的知識が殖えたために、この時代において哲学することそのことが危機にあるのでないかどうか、を真面目に考える者がほとんどいない。
一方ではすべてがルーティヌに従ってなされている。哲学は教授用のものとなり、あるいは単に教授になるためのものとなっている。哲学は今日人間の可能なる生存理由としていかなるものであるかについて、ひとは根源的に問おうとはしない。他方講壇哲学を見捨てた者の多くは、いわゆる知識社会学、イデオロギー論、等々、に赴いた。しかしながらこの者も、そのイデオロギー論、等々が果たして本来の哲学であり得るか否かについて、あまりに単純に考え、もしくは少しも考えてみない。
ここではすべてがイージーに行なわれるのをつねとした。問題は社会だといえば、社会の概念が、問題は歴史だといえば、歴史の概念が、問題は唯物論だといえば、唯物論的見方が、それぞれ哲学の中へ取り入れられた。すべては滑かに、多少の喧噪があったにしても根本においては何事も起らなかったかのように取り行なわれた。
文壇においては事情は多少異なっている。いわゆる純文学の危機として提出され、討論された問題を通じて、この時代における人間のレエゾン・デエトルとしての文学の問題は、多かれ少なかれ自覚的にされた。しかるに最もラジカルであるべき哲学の領域においては、何事もあまりに無感覚に、安易に、妥協的に片づけられて来た。何よりも「問の情熱」、この哲学的情熱が喪失しているのである。
誰も語学者と文学者とを区別することを知っている。学校において文学の代りに語学の講義を聞かされて憤ることのできる者は、いわゆる哲学者の間にも同様の区別のあることを感じることができるはずだ。
現代において、哲学するということは、人間の生存理由のいかなるものであり得るか、この根源的な問に対する情熱が哲学者といわれる者の倫理でなければならぬ。科学としての哲学、イデオロギーとしての哲学、等々の問題も、この問に比しては従属的であり、皮相的ですらあろう。生存理由としての哲学の問題との関係において哲学の方法も、対象も、形態も現実的に決定されるものである。この根源的な問の生きている場合初めて、哲学の言葉、その面倒な術語ですらもが、「具体性」をもつことができる。或る哲学が具体的であるか抽象的であるかは、主として、この点にかかるのであって、それが認識の問題を取扱うか社会の問題を取扱うかというようなことによるのではない。
知識としての、あるいは教養としての、文化としての、もしくはイデオロギーとしての哲学の問題に先立って、現代の社会的精神的情況のうちにおける人間の可能なる生存理由としての哲学が問題にされねばならぬ。哲学することの倫理について、哲学者が根源的に問うことが何よりも要求されているのである。
(『読売新聞』一九三三年四月十九日)