いったい知性に時代というものがあるであろうか。知性には旧いも新しいもなく、むしろつねに同一であるということが知性の本質的な特徴であると考えられるであろう。知性には論理というものがあり、この論理は知性が時間と空間を超えてつねに同一であるように定めているといわれるであろう。しかしながら論理にも発展がある。我々は論理の歴史をもっているのである。すべて新しい哲学は新しい論理の発見によってはじめて、本質的に新しいものとして構成されるとすれば、哲学に歴史があるように知性にも歴史があると考えることができるであろう。知性にしても純粋な空虚の中で活動し得るものではない。知性が対象を捉える方法は対象の異るに従って異るべき筈である。対象に制約されるということはもとより知性に自律性が存しないということではない。対象が方法を規定すると共に、逆に方法が対象を規定する。対象に対して構成的でないような方法というものはない。しかし自律的であるといっても、知性はそのかかわる対象の異るに応じて自己の新しい側面を発現し、或いは自己を新たに形成し、かくて発展してゆくのである。知性というものも具体的に見ると全体的な人間の一つの作用にほかならない。従ってそれは感覚、感情、衝動、意志などと種々の連関を含んでいる。これらのものと如何なる関係に立つかということが知性の性格を決定するであろう。そして現実の人間は歴史的社会的な人間である。知性も現実の人間の作用の一つとしてつねに一定の歴史的環境において働くことを要求されている。知性は自律的であり、自律的でないような知性はないが、知性が自律的であるというのは環境から分離して孤立することではなく、それぞれの歴史的環境において自己を確立してゆくことでなければならない。歴史的環境の異るに従って、或る時代の知性は特に批評的であり、他の時代の知性は特に創造的であるというようなことも生ずるであろう。
かようにして知性に時代の如きものが考えられるとすれば、知性の新時代或いは廿世紀の知性ともいうべきものは如何なるものであろうか。この場合まず知性に対する不信乃至否認こそ我々の時代の特徴であると考えられるであろう。知性の清算、主知主義の克服こそ新時代的であり、自己の退却、自己の王位返上に努力することこそ今日の知性にふさわしいと主張されている。ところで歴史的に見ると、知性の排斥は何よりも近代文化に対する批判の中から生れたのである。近代は機械の時代であるといわれる。しかるに機械の発達は人間を機械の奴隷に化し、人間生活のうちに種々の非人間的なものを作り出した。機械の発達は人間性を破壊するに至ったが、これは科学の発達の結果である。従って人間性を擁護するために機械を排斥し、その基礎である科学、そして知性を弾劾しなければならぬと考えられた。ここに我々は知性の排撃が実に人間性擁護のヒューマニズムの立場から現われたという事情に注意することが肝要である。即ち逆にいうと、今日知性の擁護はまさにヒューマニズムの立場において行われることを要求されている。尤もこのヒューマニズムは新しい知性の確立によって新しいものにならなければならないであろう。
人間性の擁護が知性の排撃になったということは現代のパラドックスである。人間の人間である本質、それによって人間が動物から区別される特徴は知性であると古くから考えられてきた。しかるに今では人間性を擁護するために知性が排斥されることになったのである。知性は人間の本性に属するよりもむしろこれを破壊するもののように見られている。そして人間性即ち人間の「自然」として主張されるのは本能であり、衝動であり、すべてパトス的なものである。知性は人間をこの自然から離反させ、かくして人間を滅亡に導くものと考えられるようになった。これに対して我々はもちろん当然反問することができる、──単に本能の如きもののみでなく、知性もまた人間の「自然」であるのではないか。知性を自然の反逆者と見るよりも、むしろ本能でさえもが或る知的なもの即ち「自然のイデー」と見らるべきではないか。そしてこのように見ることがヒューマニズムの精神に合致するのではないであろうか。
いずれにしても今特に次のことが指摘されねばならない。知性の排斥が右の如くいわゆる機械文明に対する批判を通じて現われたところからも分るように、知性は現代においては主として「技術的知性」の意味に理解されるようになったのである。これは知性そのものについての新しい見方である。現代の反主知主義のみでなく、現代の主知主義もまた、知性の本質に関するかような見方によって、旧い時代の反主知主義からと共に旧い時代の主知主義から区別される。プラグマティズムが現代の主知主義はもとより、現代の反主知主義をも種々の仕方で特徴附けているのはこれに依るのである。附帯的な意味を離れて本質的な意味に従って考える場合、プラグマティズムとは知性の技術的本性の理解にほかならないといい得るであろう。近代における人間観の変遷即ちhomo sapiens(理性人間)の人間学からhomo faber(工作人間)の人間学への推移も、このような知性の本質についての把握の変化によって規定されている。そこで技術の哲学が今日極めて重要な意味を持つことになったのである。科学の哲学はすでに近代社会の初期から存在したが、技術の哲学が顧みられるようになったのは比較的新しいことであり、新時代の特徴的な問題の一つに属している。
いま科学と技術とを比較するとき、知性は科学において自然から独立になり、そして技術において再び自然に還るということができるであろう。固より科学は自然の法則を対象とし、その際また科学は経験に基かなければならぬ。しかし知性が自然のうちに沈んでいる限り科学は生れてこない。人間は知性によって自然から独立になり、かくして自然を客観的に眺め、自然について科学的知識を持つことができる。しかるに科学が技術に転化されるということは一旦自然から脱け出した知性が或る意味において再び自然に還ることである。技術において知識は物体化され、科学の抽象的な法則は形のある具体的なものになる。元来科学の法則はそのように形のある具体的な自然の奥深く探り入り、抽象によって得られたものである。自然そのものがもと技術的であって、我々の直観に直接与えられている自然は自然の技術によって形成されたものと見ることができる。物質的生産にかかわりのない我々の精神的技術においても知識は習慣化されることによって「第二の自然」となる。このように知性は技術において自然に還ると考えることができるとすれば、知性を専ら技術的知性の意味に理解しようとする者が知性を自然の反逆者のように考えることは矛盾であるといわねばならぬであろう。技術的知性こそ自律的な知性と自然との間に内面的な関係を建てるものである。知性は単に自然に反逆すると見らるべきでなく、むしろ知性に対して自然といわれる本能の如きものにおいてもその技術性が明かにされ、かくしてその知的性質が示されなければならない。反主知主義者ももちろん、知性を技術的知性と見ることによって知性と自然との連絡を考えている。しかし彼等はそれによって同時に知性の自律性を否定しようとするのである。即ち知性は衝動の記号にほかならず、知性の言語は衝動の記号言語に過ぎないといわれる。しかるにもし知性が衝動の記号に過ぎないとしたならば、知性の産物であるところの文化が如何にして彼等の主張するように人間の自然を抑圧し得るであろうか。人間の作った文化が人間に対立するというには、文化が自律的なものであるということ、従って知性が自律的なものであるということがなければならない。技術の根柢に科学がなければならぬと考えられるのも、そのことを示している。言い換えるとhomo sapiensとhomo faberとは区別されながら一つのものでなければならない。人間は作ることによって知り、知ることによって作る。技術は生産的行為の立場に立っている。科学も元来技術的要求から生れたものであり、またその結果において技術に利用されるのである。科学はその動機において、その帰結において、実践と結び附くにしても、科学が成立するためには一旦実践の立場を離れて純粋に理論的な立場に立つことが必要である。しかもかようにして却って科学は真に技術の発達に役立ち得るのである。
近代の機械的乃至技術的文化の弊害として咎められるものは、単に機械乃至技術の罪でなく、むしろこれを利用する社会の一定の組織の罪である。機械は人間の労働を軽減し、かくして人間がその余剰の時間を自己の人格の自由な発達のために使用することを可能にするであろう。機械はまた精神的文化財が大衆化されることを可能にするであろう。それ故に技術の発達は新しいヒューマニズムの基礎でなければならない。しかるに反対の結果になっているとすれば、原因は社会にあると考えられる。人類は自然に対しては知性的に活動してきたが、社会に関しては同様に知性的でなかった。知性は今日何よりも社会に向って働かなければならない。技術の弊害といわれるものは技術のより進んだ発達によって、同時に他方この技術を社会的に統制することによって除かれ得るであろう。技術の発達そのもののためにも或る統制が必要である。ところでこのような統制はそれ自身一つの技術に、即ち自然に対する技術とは異る社会に対する技術に属している。今日重要な意味をもっているのはこのいわば技術を支配する技術である。新時代の知性は特に社会的知性でなければならぬということができる。社会的知性はその対象の性質に従って自然に対する知性とは性格を異にするであろう。
しかるに今日においては社会についても自然が重んじられるようになったことに注目しなければならぬ。そしてこの場合にもまた知性は何か自然に反するもののように排斥されている。例えば民族とはパトス的な結合である。パトスとは主体的に理解された自然のことである。民族はつねに深く伝統に根差している。伝統とは何かというと、パトス的になったロゴスのことである。知的文化も伝統となることによって習慣的になるのであるが、習慣的になるということは知性が自然のうちに沈むことである。民族的知性というものはこのような伝統的な知性である。それ故に伝統とか民族的知性とかが考えられるためには、技術的知性の場合と同じように、自然と知性、パトスとロゴスの結び附きが考えられなければならない。単に自然的なものは文化とはいわれないであろう。文化が生れるためには知性が自然から独立になること或いは知性が自律的に働くことが必要である。伝統といっても固より単に自然的なものではない。伝統があるためには文化が以前に作られなければならぬ。そして文化が作られるためには知性が伝統に対して自律的に活動すること、従ってまた伝統に対して批判的な態度をとることが必要である。科学なしには技術も考えられないように、知性の自律的な活動なしには新しい伝統となるべき文化の創造はもとより、旧い伝統が文化として存在するということも考えられないであろう。
知性は空間的なものと見られてきた。時間的なものを空間化し、時間的個別性を捨てて空間的一般性において物を見るのが知性であるといわれてきた。ところで今日強調されている民族の如きものは自然的なものとして固よりどこまでも空間的なものであるが、単に一般的なものでなくて個別的なものであり、従って他方同時にどこまでも時間的なものである。すべて歴史的なものは時間的・空間的なものである。民族の如きも単なる自然でなくむしろ歴史的自然である。歴史的なものは文化的なものでなければならず、文化的なものは知性の自律的な活動なしには作られない。けれども歴史と自然とを抽象的に対立させることも間違っている。真の歴史は却って歴史と自然とが一つであるところに考えられる。新しい知性はかような具体的な意味において歴史的知性でなければならない。歴史的知性とは如何なるものであるかが今日の問題である。
解決を求められているのは到る処同じ問題である。私は数年来この問題をロゴスとパトスの統一の問題として規定してきた。ヒューマニズムはその本来の意図において全人的立場に立つものとすれば、かようなロゴスとパトスの統一の問題はまさにヒューマニズムの根本的な問題である。現代の反主知主義の哲学は一面的にパトロギー的となることによってヒューマニズムから逸脱している。しかしながらこれに対して抽象的な主知主義を唱えることもヒューマニズムにふさわしいことではない。ヒューマニズムは知性を一層具体的に捉えると共にロゴスとパトスの統一を求めなければならぬ。ヒューマニズムは単なる文化主義ではない。それはむしろ文化が身につくこと、身体化されること、或いは人間そのものが文化的に形成されることを要求している。それ故にここにもロゴスとパトスの統一の問題がある。
かようにして我々は先ず知性と直観とを抽象的に対立させることをやめなければならない。西洋におけるヒューマニズムの源泉となったギリシア哲学においては知性も或る直観的なものであった。直観的な知性を認めるのでなければプラトンの哲学は理解されないであろう。ルネサンスのヒューマニズムにおいても同様である。デカルトは近代の合理主義の根源といわれるが、彼においても知性は一種の直観であったのであり、直観の知的性質を明かにしようとする現代の現象学はデカルトを祖としている。正しいものと間違ったもの、善いものと悪いものとを直観的に識別する良識bon sensというものもデカルトの理性raisonといったものから出ていると見ることができる。知性と直観とを合理的なものと非合理的なものとして粗野に対立させることは啓蒙思想の偏見であり、この偏見を去って直観の知的性質を理解することが大切である。しかし今日特に重要な問題はデカルト的直観でなくむしろ行為的直観である。行為的直観の論理的性質が明かにされると共に人間というものの実在性が示されねばならぬ。近代のヒューマニズムは個人主義であることと関連して人間を単に主観的なものにしてしまった。新しいヒューマニズムは行為の立場に立ち、従って人間をその身体性から抽象することなく、そしてつねに環境においてあるものと見ることから出立して、人間の実在性を示すことができる。しかるに身体性の問題はパトスの問題である。パトスは普通いうように単に主観的なものでなく、それなしには人間の実在性も考えられないようなものである。
近代の自由主義は批評的な知性を発達させた。自由主義も固より単に批評的であったのでなく、それ自身の創造的な時代をもった。けれどもそれが社会において指導的意義を失うに従って自由主義は次第に創造的でなくなり、知性は単に批評的なものになってしまった。それは批評のための批評、批評一般に堕して行った。この傾向は知性が直観から離れて抽象的になることによって甚だしくされたのである。新時代の知性は単に批評的でなく創造的でなければならない。創造的知性が今日の知性である。批評的な知性が分析的であるのに対して、創造的な知性は綜合的である。抽象的になった批評的な知性は、創造的になるためにパトスと結合しなければならない。知性は民族のパトス、伝統のパトスの中に沈まなければならないといわれている。固より知性がパトスに溺れてしまっては創造はないであろう。創造が行われるためには自然の中からイデーが生れてくること、パトスがロゴスになることが要求される。創造は知性のことでなくて感情のことであるといわれている。その通りであるとしても、創造にはロゴスがパトスになることが必要であるように、パトスがロゴスになることが必要である。
しかし如何にしてパトスはロゴスになり、ロゴスはパトスになることができるであろうか。パトスとロゴスの統一は如何にして可能であるか。ロゴスに対してパトスの意味を明かにすることに努めてきた私は、この問題について絶えず考えなければならなかった。そして私は遂に構想力というものにつきあたったのである(拙著『構想力の論理』参照)。カントは感性と悟性の綜合の問題に面して構想力を持ち出した。構想力は、感性と悟性が抽象的に区別されたものとして先ずあって、これらを後から統一するのではない。構想力はそのような仕方で感性と悟性を媒介するのではない。媒介するものは媒介されるものよりも本原的である。構想力のこの本原性に基いて創造は可能である。
科学が出てくるためには生素な経験主義からの飛躍がなければならないが、かような飛躍は構想力によって可能である。また科学が行為の中へ入るためには知識がパトス的直観と結び附かねばならないが、かような結合は構想力の飛躍によって可能である。知性が自然から独立するためにも、また知性が自然に還るためにも、構想力の媒介が必要である。知性の根柢に考えられねばならぬ直観は構想力でなければならない。構想力は直観的であるといっても単に非合理的なものでなく、それ自身知的なものである。知性の特徴とされる経験の予料、仮説的思考という如きものも、構想力なしには考えられないであろう。創造的知性は単に推理する知性でなく、構想力と一つのものでなければならぬ。
現代の知性人とは如何なるものであるかという問に対して、「思索人の如く行動し、行動人の如く思索する」というベルグソンの言葉をもって答えることができる(第九回国際哲学会議におけるデカルト記念の会議に寄せた書簡)。ところで思索人の如く行動し、行動人の如く思索するということは構想力の媒介によって可能である。我々の眼前に展開されている世界の現実は種々の形における実験である。相反し相矛盾するように見えるそれらの実験が一つの大きな経験に合流する時がやがて来るであろう。「そこへ哲学が突然やって来て、万人に彼等の運動の全意識を与え、また分析を容易ならしめる綜合を暗示するとき、新しい時代が人類の歴史に新たに開かれ得るであろう。」知性人は眼前の現実に追随することなく、あらゆる個人と民族の経験を人類的な経験に綜合しつつしかも経験的現実を超えて新しい哲学を作り出さねばならぬ。この仕事の成就されるためには偉大な構想力が要求されている。すでに個人から民族へ移るにも、民族から人類へ移るにも、構想力の飛躍が必要であろう。今日の知性人は単に現実を解釈し批評するに止まることなく、行動人の如く思索する者として新しい世界を構想しなければならない。新時代の知性とは構想的な知性である。
(一九三八年五月)