弾力ある知性 (三木 清)

先達せんだって「文学界」の座談会で、科学主義と文学主義ということが問題になった。私はその時、いったい近年、なに主義、なに主義と、カタログでも作るように思想を分類するという風があまり甚だしくないかと述べた。この傾向は日本人の名目主義とか形式主義とかに関係があり、ただ結論だけを問題にして道程には興味をもたないということに関係があるであろう。ただ結論だけを問題にするということは科学の精神にも文学の精神にも反することであって、実際家の便宜主義に基いている。実際家の精神は弾力のあるものでなければならぬとも考えられるのであるが、我が国の道徳の伝統には名目主義とか形式主義とかが少くない。あらゆる思想をカタログに作るということは政治主義の影響にも依るであろう。政治にはスローガンが必要だ。歴史的に見ると、なに主義といった名称は反対派によって附けられた場合が多いのであるが、それに政治主義の影響が加わると、どのような思想でもカタログに作らないと承知しないということになる。座談会の席上で、科学主義と文学主義が問題になるのは、現在、評論が作家にとっても評論家相互にとっても役に立たないものになり、不生産的になっているという事情からである、というような話が出たが、それは事実であろう。しかるにこの事実は、あらゆる思想を何等かの名称の抽斗に入れねば気がすまないという傾向に原因している。

我が国においては洗煉された趣味を有する人は必ずしも稀でない。しかし洗煉された知性を有する人に出会うということは極めて困難である。知性の洗煉には、趣味の洗煉の場合と同様に、余裕が、一種の贅沢が、そして伝統が必要である。しかるに我が国においては近代的な知性は伝統に乏しく、余裕をもたず、贅沢はもとよりない。諷刺文学に対する要求が既に久しく公然と叫ばれているにも拘らず、それが現われないというには理由がある。諷刺は知性の贅沢を必要とするのである。

もしも知性が剛直なものであるとするならば、非合理主義が正しい結論であるかも知れない。パスカルはデカルトの合理主義に反対して非合理主義を唱えた。しかしデカルトの知性がパスカルの考えたように剛直なものであったかどうか、問題である。懐疑を哲学の方法として発見したのはデカルトであった。剛直になった知性のドグマを破壊したのがデカルト的知性である。

「われは仮説を作らず」とニュートンは云った。ところが伝説に依れば、このニュートンは林檎の落ちるのを見て、宇宙に就いて大きな仮説を懐くに至った。誰も林檎の落ちるのを見ている。しかし、林檎の落ちるのを見て、更に高い所、つまり空を仰ぎ、何故に星は落ちて来ないのかと考えた点に、科学者の空想(構想力)がある。ちょうどコロンブスの卵に実際家の構想力が見られるように。

知性の弾力は仮説的に動き得るところにある。この点で知性は空想に似ていると云えるであろう。否、この点で知性は空想によって助けられねばならず、逆に空想も知性によって助けられることが必要である。知性と空想とを全く相反するもの、相容れぬもののように考えることは間違っている。想像は「誤謬と虚偽との主人」である、とパスカルは云った。しかしパスカルほど想像に豊かな人も稀であった。「誤謬と虚偽との主人」であるとした構想力によってパスカルは科学者ともなり、思想家ともなったのである。

知性は仮説的に働くことができる故に、かくてまた空想に結び附くことができる故に、知性は小説家においても欠くことのできぬものとなる。小説をフィクションと云い、またロマンと云うのは何等偶然でない。日本の小説には空想が乏しいと云われているが、それは日本の小説に知性が乏しいということと無関係でない、つまり我々には仮説的な思考の仕方が十分理解されていないのである。

今日、知性が剛直になっているとすれば、それは知性の本性に基くのでなく、政治的熱情の影響に依るのである。

ジードは、自分の書くものが事毎に喧しく批評されることを不快がり、そんなに有名でなかった昔を懐しがっている。デカルトは有名になると共に訪問客の襲撃を怖れて、隠れ廻った。「善く隠れる者は善く生きる」とは、彼の格言である。

知識は弱し、ということはいろいろな意味において真理を含んでいる。しかも弱き者が軽蔑されること、今日よりも甚だしい時代はない。この時代において知性は果して尊重されていると云い得るであろうか。

批評は批評を呼んで循環する。一つの批評が書かれると、それに就いていくつかの批評が書かれ、更にこれらの批評に就いて他のいくつかの批評が書かれる。かようなことを考えると、批評を書くのが嫌になってしまう。創作家の特権は、彼が一つの作品を書いた場合、それに就いて他の創作がなされるということがないことである。批評の循環を好まない者は、自分の批評が創作を生むようなものにすること、或いは自分の批評を創作にまで高めることに努力するのほかない。しかるに批評が創作的であるためには、批評は個性的もしくは人間的でなければならないのであるが、今日の我が国においては個性的な、人間的な意見というものはあまり尊重されないようである。

昨年あたりから「科学的精神」ということが頻りに云われている。それを強調することはもとより全く正しい。しかしこの科学的精神が「科学主義」というものになることは危険である。嘗て十九世紀において、科学の実証的精神が「実証主義」によって却って害されたことがあるのを想起しなければならぬ。

最近における科学的精神に就いての議論が主として自然科学の方面からなされ、歴史科学や社会科学の方面からなされなかったことは、不十分であった。筆者たちは恐らく、歴史や社会に関する方面においても同様に科学的精神が必要であることを示唆しようと欲したのであろうが、顧みて他を言うといった感があった。そのうえ我が国には一人のクロード・ベルナールも、ポワンカレも、マッハもいないのである。真の科学的精神が何であるかを、実際に科学に生き、科学の領域において独創的な研究をなした人が教えてくれねばならぬ。「局外批評家」たちの科学的精神に就いての議論には以前の抽象的な合理主義が目立っていた。

この頃は、アナクロニズムを感ぜしめるものが多くなって来たようである。ファッシズムにはアナクロニズムが多いのであるが、このファッシズムが盛んになって来るに従って、それに対抗するために、一時代前の自由主義や合理主義が、十八世紀の啓蒙哲学や唯物論が頻りに担ぎ出されている。遠廻りすることも時には必要であろう。しかし遠廻りしているうちに道に迷ってしまってはならない。

アナクロニズムは時間の錯覚であるが、この錯覚が我が国にはいろいろ多いようである。ヘーゲルとハイデッガーとが恰も同時代人であるかのように我が国には入ってくる。文化の混乱、精神の無秩序の原因の一つがそこにある。それは外国の文化を後から取り入れねばならぬ国の悲哀である。そこでは古典と新刊書とが全く同じ態度で迎えられる。従ってそこでは古典が古典として取扱われるということが不可能である。我が国のアカデミーにアカデミズムが存しないということも、かような事情に基いているであろう。

著者が何気なく書き付けておいてくれたことからヒントを得る場合は尠くない。偉大な書物というのは無駄のある書物のことであり、しかもその無駄がその書物の全体にとって、また読者にとって、結局、無駄でないという書物のことである。我が国にはかような無駄のある書物が極めて稀である。なにもかも綺麗に整理されている。著者がそれを書いてゆくうちに問題になったであろうようなことが、すべて切り棄てられている。つまり我が国には教科書しかないということになる。だから日本の書物には、後から出してみて、自分の研究の材料に用い得るようなものが甚だ少い。我々はただ著者の見解に同意するか反対するかだけであって、読めばそのまま片附けてしまう。文化が蓄積されることの乏しい理由の一つは無駄のある書物が少いことに依るであろう。

知性は抽象する。しかし抽象するということと問題を切り棄てるということとは同じでない。無駄があってしかもそれが無駄になっていないような物の考え方が必要である。それが知性の贅沢というものであり、洗煉された知性はそこから生じる。

知性の訓練の伝統に乏しい所では弁証法ですら硬化し、近年我が国においては弁証法的形式主義が、弁証法的マンネリズムへの堕落が見られる。

(一九三七年七月)

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