第二章 行為の問題
一 道徳的行為
行為に関する哲学的考察は、実践哲学、或いは道徳哲学、或いはまた倫理学と呼ばれている。行為という場合、普通にその道徳性が問題にされ、行為はおよそ道徳的行為の意味に理解され、その際、道徳は知識とか芸術とかと異るものと考えられている。しかし既に述べた如く、知識の問題も行為の立場から捉えられねばならぬ、知識の主体も操作的なものとして行為的と見られることができ、また知識についても知識の倫理がある。更に芸術の如きも、単に享受の立場からでなく、制作の立場から捉えられねばならぬ、芸術の主体も制作的なものとして行為的と見られることができ、芸術についても制作の倫理が要求されるであろう。かように物を行為の立場において見るということは、物を歴史的世界において見ることである。歴史的世界は行為の世界である。従ってドロイセンのいう如く、歴史的世界は道徳的世界である。もとより知識、芸術、道徳の間には区別がある。知識の根本問題は真理であり、道徳のそれは善であり、芸術のそれは美であるといわれている。しかしそれらを差別においてと同時に統一において把握することが重要である。
道徳的といわれる行為に固有なものは何であろうか。これが明かになって初めて、いかなる意味において他の種類の行為も道徳的と考えられるかが明かになるのである、認識は主体の客体に対する関係である、それは主体による客体の把捉である。科学においては人間も物と見られ、自然として取扱われる。認識の問題は我と物或いは自然との関係であるといわれる。しかるに道徳は主体の主体に対する行為的聯関のうちにあるのである。それは人と人との関係、人間的関係を指している。カントが、他の人を物としてでなく、人格として取扱え、ということを道徳的命令として掲げたのは、道徳の根本現象を明かにしたものということができる。道徳の根本概念は我と物でなく、我と汝である。
道徳はすべて我と汝の関係の認められるところに成立する。そのことは人間を単に他との間柄においてのみ考えて、自己自身として考えないということではない。我々が人格であるのは、自己が自己に対する関係においてであって、他に対する関係においてではないといわれるであろう。しかし人間がこのように自己自身において道徳的存在であるということも、自己が自己に対して我と汝の関係に立ち得るということに基いている。私は私自身に対して汝と呼び掛ける。「汝為すべし」という道徳的命令は、私が私自身に対して汝と呼び掛けるのであり、そこに道徳の自律性がある。道徳を単に自他の間柄においてのみ考えるのでは、道徳の自律性は考えられないであろう。道徳的に自覚的であるということは、自己が自己に、自己を汝として対することである。カントが良心を、主体の主体に対する関係として、法廷に譬え、自己のうちに訴えられたものとその裁判官であるものとを考えたのも、かような関係を示すものにほかならない。良心的とは道徳的に自覚的であるということである。過去の私、未来の私、否、現在の私も、私はこれを汝としてこれに対することができる。かように自己が自己に、過去現在未来のすべてにおける自己に、これを汝としてこれに対し得るということは、人間存在の超越性に基いている。超越なしには道徳は存しない。自己が自己に、自己を汝として対し得る自覚的存在として人間は人格であり、かような人格にとって他の人間も真に汝であるのである。汝が真に汝として我に対するためには我が真に我でなければならぬ。
ところで「汝為すべし」という道徳的自覚は、自己が自己に、自己を汝として呼び掛けることであるが、それは同時に逆に、かように呼び掛けるものがむしろ汝であり、自己が汝に呼び掛けるのでなくて、汝から自己が呼び掛けられることである。良心を法廷に譬えたカントにおいても、訴えられたものが自己であって、裁判官は「他の人間」であった。自覚は超越によって可能になるのであり、それは単に自己が自己を意識するということでなく、却って自己が自己を超えるということである。自己が自己を超えることによって、自己が自己を意識するということも可能になる。自覚において現われるのは単なる我でなくむしろ汝であり、汝によって我も喚び起されるのである。「我々は反射によって、即ち我々自身への強要された還帰によって、目覚める。しかるに抵抗なくして還帰なく、客観なくして反省は考えられない」、とシェリングはいった。私はひとりでに反省的自覚的になるというよりも、客観の抵抗によって自己自身に還るのである。否、客観からでなく、却って他の主体即ち汝から、我は自己自身に還るのである。汝の命令によって我は喚び起されるのである。そこに道徳的行為の客観性がある。我が良心的であればあるほど、汝の我に対する呼び掛けはいよいよ迫ってくる。もとより単に外から強制されるのであっては道徳ではない。外から喚び起されることが内から喚び起されることであり、内から喚び起されることが外から喚び起されることであるところに、道徳がある。カントは、良心を主観的強制と見、これに対して実践理性の法則に基く義務を客観的強制と見たが、道徳を単に良心の問題と考えては単なる主観主義に陥ることになり、そこには何か、義務というが如き客観的命令的なものがなければならぬ。しかしカントの道徳法の概念には歴史性が欠けている。それは時と処と人とに関わりのない一般的法則として捉えられている、従ってそれは形式的であるに過ぎぬ。しかるに行為はつねに歴史的である、特定の状況のもとにおける特定の主体に依る行為があるのみであって、抽象的一般的な行為というものは考えられない。道徳は主体の主体に対する行為的聯関としてつねに歴史的である。
道徳的行為の歴史性は、道徳的要求における真理の性質から明かにされ得るであろう。真理は単に知識にのみ関するものでなく、道徳にも真理がなければならぬ。それのみでなく、フィードレルのいった如く、芸術においても真理がその中心問題であり、芸術的真理における実質のみが芸術作品の永続的価値を決定するのであつて、あらゆる他の性質は副次的であり、一時的な効果を基礎付けるに過ぎぬと考えることもできるであろう。そしてフィードレルは芸術的真理の問題を観照の立場でなく芸術的生産の立場から考えたが、道徳的真理はもとより行為の立場から考えられねばならぬ。道徳における真理は客体の真理、自然の真理でなく、主体の真理、人間そのものの真理である。自然の真理はそれ自体においてあるものの真理であり、人間から認識されると否とに拘らずそれ自身において存在すると考えることができるとしても、道徳の真理は歴史的真理であり、主体と主体との間に生起するものである。自体においてあるものの真理に関わる主観は、カントの意識一般の如く、抽象的一般的な、非歴史的なものと考え得るにしても、歴史的な道徳的真理はつねに現実の具体的な人間に関わるのである。それは人と人との間に起るものであり、従って起らないこともあり得る、そのとき真理の代りに虚偽が現われるのである。道徳的真理は起るものであり、従って起らないこともあり得る故に、それは命令或いは当為(ゾルレン)の形をとるのである。自然の真理は命令でなく必然(ミュッセン)である、しかし世界についての真理も世界における真理の問題と見られるとき我々に対して命令の意味をもってくる。道徳的真理が当為であるということは、それが単なる形式であるとか単なる理想であるとかということでなく、むしろ逆である。それは歴史的真理として現実的なものであり、単なる意味というが如きものでなく、却って意味と存在との統一である。道徳的真理は人間の真理であるといっても、「人間」というものの一般的本質が問題であるのではない。それは私がそれに従って他の者に対する態度を作るべき人間一般の真の像というが如きものでもない。道徳においては私自身の真理が問われているのである。その真理は主体的な真理、言い換えると、真実、人間のまことである。人間のまこととは何であろうか。我が汝から喚び起され、汝の呼び掛けに応えるということである。かく応えることにおいて我のまことは顕わになり、真理は起る、即ちその真理は歴史的である。それが道徳の存在の真相である。呼び掛けはつねに具体的なものであり、これに応える行為もつねに具体的である。汝から喚び起されるためには、我は純粋で、まことでなければならぬ。また我を喚び起すためには、汝は純粋で、まことでなければならぬ。本質的に歴史的な行為的な道徳的真理は、具体的には、単に我のまことにあるのでなく、また単に汝のまことにあるのでもなく、我と汝との間にあるのである。
道徳的真理即ち真実が信頼を基礎付ける。信頼は、元来、主体と主体との間に成立つ関係である。自己の呼び掛けに対して他が必ず応えるであろうと信頼する、その際他のまことが信ぜられており、また応える側においても自己に呼び掛ける者のまことが信ぜられている、即ち信頼は人と人との間に真理が起るということを土台としている。信頼は単に他が変らぬこと、彼の人格の同一性を信ずるというが如きことではない。カントは正直という徳を、不正直であることは自己矛盾に陥るとして説明したが、すべて道徳はかように形式論理をもって説明し得るものでない。道徳的真理は我と汝という全く独立なもの、対立するものの統一の上に成立つのであるが、道徳はすべてかくの如く弁証法的なものである。ところで他の呼び掛けに応えることは責任をとるということであり、それに応えないことは無責任ということである。責任をもつというのは他の信頼に報いることであり、無責任であるというのは他の信頼を裏切ることである。信頼と同じく責任の観念は道徳的行為の基礎である。もし信頼がただ他を信頼するのみで同時に自己を信頼することでないとすれば、それは自己のまことを失うことになり、無責任なことになる。責任もまた単に自己の他に対する責任でなく、自己の自己に対する責任でなければならぬ。他に対して責任を負うことが同時に自己に対して責任を負うことであり、自己に対して責任を負うことが同時に他に対して責任を負うことであるというところに、人間のまことがあるのである。そして人格の観念と責任の観念とは本質的に結び付いている。人格とは責任の主体である。責任の主体は自由でなければならず、自由なものであって責任の主体となり得るのである。「汝為すべし」と呼び掛けられているのを知る人間は、まさにそれによってまた自己が自由なものとして、自己の道徳的自由に向って呼び掛けられているのを知るのである。自由と責任とは不可分のものである。
ところで他が自己に呼び掛けるというのは他が表現的なものであるからである。汝として我に対するものは表現的なものでなければならぬ。汝は表現的なものとして我の行為を喚び起すのである。人間の真理と虚偽が、ほんととうそとして、特に言葉に関して理解されるのも、そのためである。我々の行為は表現的なものから喚び起されるのであり、かようなものとしてそれ自身表現的である。主体と主体とは表現的なものとして相対し、その行為的聯関は表現的聯関である。しばしば論じた如く、主体とは単に主観的なものでなく、むしろ主観的・客観的なものである。そして表現というのは、主観的なものと客観的なものとが、内と外とが一つであることを意味している。表現において、内部が外部に表現されるといわれる。この内なるものは単に主観的なもの、単に個人的なものであることができぬ。却って我々は己れを殺すことによって真に表現的になり得るのである。技術的に作られたものは表現的であるといわれるが、その場合、もし我々の意欲が単に主観的なもの、肆意的なものであるとしたならば、自然の客観的な法則がこれに向って反逆し、これと一つに結び付いて物が作られるということはないであろう。その意味で技術における人間の意欲は客観的意味をもったものでなければならぬ。ひとは技術において自己の主観的な意欲を制し、これを客観的なものにすることを学ぶのであって、技術が道徳的教育的意味をもっているのも、そのためである。我々の意欲が或る客観的なものであることによって技術は成立するのであり、人間の技術が自然の技術を継続するということも、そのためにいわれることである。それだからといって、技術は単に客観的なものであるのでなく、やはり主観的なものと客観的なものとの統一である。単に主観的なものを否定することによって我々は真に主体的になるのであり、人間のまことが現われるのである。このものは超越的意味をもっている。表現において表現されるものは単に心理的なもの、内在的なものでなく、超越的なものでなければならぬ、イデー的なものでなければならぬ。真に自己に内在的なものは超越的なものによって媒介されたものであり、超越的なものによって媒介されたものが真に自己に内在的なものであるというところに、人間の存在がある。しかしながらそのことは表現作用が単に理性(ロゴス)から起るということを意味するのではない。「デーモンの協力なしには芸術作品はない」とジイドがいった如く、我々の表現作用の根柢にはデモーニッシュなもの、大いなるパトス(感情)がなければならぬ。「世界におけるいかなる偉大なことも激情なしには成就されなかった」、と理性主義者ヘーゲルでさえいっている。デモーニッシュなものとは無限性を帯びた感性的なものである。人間の動物的衝動という言葉は、比喩的に語られているのでなければ、不正確に語られているに過ぎぬ。我々は動物的衝動をもっているのでなく、ただ人間的衝動をもっているのであり、このものは外的機能においていかに動物的衝動と類似しているにしても、性格的にはそれとは別のものである。人間的衝動はデモーニッシュであり、また人格化されている。人間が超越的であるのは単に理性においてでなく、却ってその全存在においてである。プロメテウスの神話が象徴している如く、技術というものもしばしばデモーニッシュな衝動に基いている。世界の根柢には無限の闇、無限の衝動がある。もとよりパトス的なものは無限定なものであり、しかるに表現作用は形成作用として限定作用である、そこにパトス的なものの中からイデーが生れるということがなければならぬ。パトスが衝動的であるというのも、それ自身は無限定なものでありながら、すでにそれ自身のうちに限定への、イデーへの、形への無限の希求を含むためでなければならぬ。表現におけるイデーは抽象概念の如きものでなく、パトスの中から生れたものであり、従って抽象的に理性的なものでなく、むしろ感情的・理性的なものである。形はイデー的なものであるが、単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。しかもイデーは働くことによって見られるもの、作ることにおいて見られるものである。それは歴史に対して先在的にあるものでなく、却って歴史的なもの、歴史において現われてくるものである。しかし真に歴史的なものは単に歴史的なものでなく、歴史的なものと超歴史的なものとの統一である。
人間が表現的なものであるということは、簡単にいうと、人間が世界のものであるということである。その意味はあたかも、薔薇が自然を表現するといわれるのと同様である。自然とは生むものであり、薔薇は自然から生れたものとして自然を表現している。人間も世界から作られたものとして世界を表現している。この世界を自然といい物質というにしても、それは歴史的自然であり、歴史的物質である。表現的なものは歴史的に形成されたものである。人間は歴史的・形成的世界の形成物として表現的である。すべて表現的なものは個別的なものである。しかし単に特殊的なものは表現的でなく、表現的なものは一般的意味をもつものでなければならぬ。人間は世界的意味をもつものとして表現的であるというとき、世界は客観としての世界であることができない。表現的なものは単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものであり、そこには内部が外部に現われるということがなければならぬ。この内部は単に心理的・内在的なものでなく、超越的意味をもつものでなければならぬ、真に内なるものは真に外なるものでなければならぬ。
もとより我々は無限定に世界を表現するのではない。表現するとは却って形成することであり、形成するとは限定することである。表現的なものは単に一般的なものでなく、特殊的に限定されたものである。我々は世界一般を表現するのでなく、却って個々の個別的社会を表現するのであり、個別的社会における個々の個別的関係を表現するのである。我々はそれぞれの場合において、或いは親子として、或いは友人として、或いは学生と教師として、それぞれ具体的な社会的関係を表現している。表現的なものは単に特殊的なものでなく、自己がそれにおいて他と関係する一般的なものを表現している。表現的なものは個別的なものであり、個別的なものは特殊的なものと一般的なものとの統一として、特殊的・一般的に限定されたものである。汝は表現的なものとして我に呼び掛け、我は汝から喚び起される、道徳的命令はつねに具体的に限定されたものである。「汝為すべし」ということはつねに一定の歴史的・社会的関係から出てくるのである。そこに表現されているのは社会的意味であり、道徳的意味充実はつねに社会的意味充実である。汝は汝自身を表現すると共に社会を表現する。社会は表現的なものであり、大なる汝である。社会はしばしば「大なる我」と看做されてきた。しかしかように考えることは、社会を単に我に内在的なものと考えることになるであろう。社会は超越的なものとしてむしろ「大なる汝」であり、我も汝も社会を表現するものとして我であり汝である。我と汝との行為的聯関の基礎にはつねに我と汝とがそれにおいて関係する場所としての社会がある。我と汝とは一つの環境、一つの社会、一つの場所にあって働き合うのであり、我々はつねに環境的に限定され、環境を表現している。社会は我々がそこにおいてある場所として、単に客観的なものでなく、主体的なものである。しかるに個別的社会も、単に自己自身を表現するのでなく、同時に自己を超えた社会、自己がそれにおいてある環境を表現するのであり、かようなものとしてそれは表現的といい得るのである。民族の如きも歴史的に形成されたものであり、自己自身を表現すると共に世界を表現している。世界といっても、世界一般があるのでなく、それぞれの時代における世界があるのであり、それらの個々の世界がそれにおいてある世界、絶対的場所としての世界を表現している。この世界は絶対的に主体的なものであり、過去現在未来における一切のものがそこから生じ、それにおいてある真の現在である。すべての歴史的行為はかような現在から起り、この世界を表現する。一切の歴史的なものはこの世界の主観的・客観的自己限定、特殊的・一般的自己限定として作られ、この世界においてある。かくしてあらゆる歴史的なものは歴史的であると同時に超歴史的である。我々は民族的であると共に世界的であり、民族に属すると同時に直接に世界においてあるのである。
人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作ってゆく。人間は形成的世界の形成的要素として、世界が世界を作ってゆく中において作ってゆくのである。我々の道徳的行為もかような世界から把握されねばならぬ。そのことは、道徳というものが従来単に主観的に理解される傾向があったのに対して、特に強調される必要がある。もちろんそれは単なる客観主義の立場に立つことではない。主体であるところの人間がそこから作られ、そこにある世界は単に客観的なものであることができぬ。世界的立場は主体を超えた主体の立場であり、かようなものとしてまた最も客観的な立場であるということができる。世界は歴史的である故に、世界的立場は世界史的立場である。人間のすべての行為は歴史的である、それが歴史的であるというのは、行為が出来事であるということ、行為が同時に生成の意味をもっているということ、我々の為すものでありながら我々にとって成るものの意味をもっているということである。人間は形成的世界の形成的要素として、人間の行為はすべてかくの如き意味をもっている。我々の行為は我々自身から起ると同時に世界から起るのである。道徳的行為の問題も単なる意志の問題でなく、形成的・表現的行為の問題である。主体と主体との表現的聯関は行為的・形成的に捉えられなければならない。それを単に解釈する立場は道徳的立場ではない。道徳の立場は本来行為の立場である。主体が道徳的に表現的であるということは行為的に表現的であるということである。他の行為を喚び起すものとして、また他の呼び掛けに行為的に応えるものとして、主体は道徳的に表現的である。主体と主体との表現的聯関は、ただ理解され解釈されるために、既に出来上ったものとしてそこにあるのでなく、絶えず新たに歴史的行為的に形成されてゆくべきものである。道徳は人と人との行為的聯関であるといっても、それはつねに物を媒介としている。物の媒介を離れて人と人との関係を考えることは抽象的である。しかもその物は単なる物でなく、却って表現的なものである。人と人とは表現的な物を媒介として結び付くのである。文化というものは一般にかくの如き性質のものである。文化というものは人間の作るものでありながら、作る主体から離れて独立なものとなり、作る主体に向って逆に働きかける。文化は人間から作られ、逆に文化が人間を作るのである。文化は表現的なものとして超越的意味をもっている。それは私の作るものでありながら、私から離れて、もはや私のものでなく、公共的な表現的な世界に属している。人と人とは文化を媒介として結び付いている。物の形成、文化の形成を離れて人と人との行為的聯関を考えることはできぬ。
世界的立場はもとより抽象的な世界主義の立場ではない。世界は歴史的であり、世界的立場は世界史的立場であるが、世界は民族を媒介として形成されるのである。しかし民族はまた世界を媒介として形成されるのである。すべての歴史的なものは環境においてあり、環境から限定されると共に逆に環境を限定する。個人は民族から限定されると共に逆に民族を限定する。民族は個人の行為を媒介として世界的になることができる。民族が世界的になるということは自己の本質を失うことでなく、却ってそれは自己の本質を発揮することによって真に世界的になるのである。個人もまた自己の本質を発揮することによって真に民族的になることができ、同時に真に世界的になるのである。歴史的なものはすべて個別的なものであり、個別的なものは一般的なものと個別的なものとの統一である。個人、民族、世界は相互に否定的に対立している、しかも否定は媒介であり、否定の媒介によって物は具体的現実的になるというのが弁証法の論理である。歴史は媒介的に動いてゆくのであり、弁証法的に媒介的である故に、そこに歴史的運動があるのである。
二 徳
すべての道徳は、ひとが徳のある人間になるべきことを要求している。徳のある人間とは、徳のある行為をする者のことである。徳は何よりも働きに属している。有徳の人も、働かない場合、ただ可能的に徳があるといわれるのであって、現実的に徳があるとはいわれないのである。アリストテレスが述べたように、徳は活動である。ひとが徳のある人間となるのも、徳のある行為をすることによってである。それでは、いかなる活動、いかなる行為が徳のあるものと考えられるであろうか。この問題は抽象的に答えられ得るものでなく、人間的行為の性質を分析することによって明かにさるべきものである。
人間はつねに環境のうちに生活している。かくて人間のすべての行為は技術的である。言い換えると、我々の行為は単に我々自身から出るものでなく、同時に環境から出るものである、単に能動的なものでなく、同時に受動的なものである、単に主観的なものでなく、同時に客観的なものである。そして主体と環境とを媒介するものが技術である。人間の行為がかようなものであるとすれば、徳は有能であること、技術的に卓越していることでなければならぬ。徳のある大工というのは有能な大工、立派に家を建てることのできる大工であり、これに反してあるべきように家を建てることのできぬ大工は大工の徳に欠けているのである。徳をこのように考えることは、何か受取り難いように感ぜられるかも知れない。今日普通に、道徳は意志の問題と考えられ、徳というものも従って主観的に理解されている。しかるに例えばギリシア人にとっては、徳はまさに有能性、働きの立派さを意味したのである。この見方はルネサンスの時代に再び現われた。徳は力であるということも同様の見方に属している。実際、人間の行為はつねに環境における活動であり、かようなものとして本質的に技術的であることを思うならば、徳を有能性と考えること、それを力と考えることでさえも、理由があるといわねばならぬ。行為は単に意識の問題でなく、むしろ身体によって意識から脱け出るところに行為がある。従って徳というものも単に意識に関係して考えらるべきものではないのである。芸術を制作的活動から出立して考察し、その一般的原理は美でなく却って真理であるといったフィードレルは、芸術的に真であることは、意図の、意欲の問題でなく、才能の、能力の問題であると述べている。我々は道徳的真理について、同じように、道徳的に真であることは、単に意志の問題でなく、有能性の問題であるということができるであろう。
尤も、行為はすべて技術的であるにしても、すべての技術的行為が道徳的行為と考えられるのではないであろう。固有な意味における技術は物の生産の技術であって、かような技術的行為はそれ自身としては道徳的と見られないのが普通である。道徳的という場合、それは物にでなく人間に、客体にでなく主体に、関係している。技術的行為について徳が問題にされる場合においても、それは主体或いは人間に関係して問題にされるのである。ひとがその仕事において忠実であること、良心的であることは、道徳的であるといわれる。そのとき問題にされているのは、彼の仕事でなく、彼の人間である。しかしながら他方、いかなる人間の行為も物に関係している。我々自身或る意味では物であり、人と人との行為的聯関は物を媒介とするのがつねである。人間の徳を彼の仕事における有能性から離れて考えることは抽象的であるといわねばならぬ。
それのみでなく、技術の意味を広く理解して、人間の行為はすべて技術的であると考えるとき、徳と有能性との密接な関係は一層明瞭になるであろう。従来技術といわれたのは主として経済的技術である。かように技術というと直ちに物質的生産の技術を考えることは、近代における自然科学及びこれを基礎とする技術の飛躍的発達、それが人間生活にもたらした顕著な効果の影響のもとに生じたことである。しかしギリシアにおいて芸術と技術とが一つに考えられたように、一切の文化は技術的に形成されるものである。そして独立な主体と主体とは、客観的に表現された文化を通じて結合される。主体と主体とはすべて表現を通じて行為的に関係する。人と人とが挨拶を交すとき、その言葉はすでに技術的に作られたものである。挨拶は修辞学的であり、修辞学は言葉の技術である。そのとき、彼等が帽子をとるとすれば、そこにまたすでに一つの技術がある。一般に礼儀作法というものは技術に属している。技術的であることによって人間の行為は表現的になる。礼儀作法は道徳に属すると考えられているように、すべての道徳的行為は技術とつながっている。礼儀作法は一つの文化と見られるが、一切の文化は技術的に作られ、主体と主体との行為的聯関を媒介するのである。経済はもとより、社会の諸組織、諸制度も技術的に作られる。自然に対する技術があるのみでなく、人間に対する技術がある。人間は自然的・社会的環境において、これに行為的に適応しつつ生活している。自然に対する適応と社会に対する適応とは相互に制約する。自然に対する適応の仕方が社会の組織や制度を規定し、逆にまた後者が前者を規定する。自然に対する技術と社会に対する技術とは相互に聯関している。そして歴史的に見ると、近代社会における中心的な問題は自然に対する技術であったが、それが産業革命となり、その後その影響から重大な社会問題が生ずるに至り、現代においては社会に対する技術が中心的な問題になっているということができるであろう。