真理は超越的なものであるといっても、ただ客観的にあるものではない。我々から単に独立であって我々に決して関係付けられることのないものは、存在といわれるのみで、真理とはいわれないであろう。真理はもと存在に属すると考えられるとしても、この存在が我々の主観に関係してくるところに真理といわれる意味がある。真理は単に自体における存在でなく、自体における存在が我々にとっての存在となるところに真理の意味があるのである。主体の作用によって存在はそのものとして顕わになるのであって、主体の超越はその根柢的な条件である。そこで真理とは本来知識の真理をいい、存在の真理は知識の真理に従って比論的に名付けられるに過ぎないと考えることができる。知識は主体と客体との関係のうちにあって、その関係から真理は真理になるともいわれるであろう。存在における真理というものはいわば即自態における真理に過ぎず、それが知識における真理となることによって対自態における真理となり、その知識に従って主体が行為することによって真理は再び存在における真理となり、即自対自態における真理となる。世界についての真理は主体を通じて世界における真理となり、それによって現実的に真理となる。真理は究極は世界における真理の問題として主体に関係しており、真理が何よりも知識の真理を意味すると考えられるのも、根源的にはそれに基いている。真理は働くもの、人間を変化し、存在を変化するものでなければならぬ。「生産的なもの、それのみが真理である」、とゲーテはいった。客観的真理は主体的真理に関係付けられることによって、その根拠もその意味も明かにされる。人間のまことによって物のまことは顕わになり、物のまことに従って働くことが人間のまことである。真理は単に知識の問題でなく、同時に倫理の問題である。真理は我々を喚び起すものとして表現的なものでなければならぬ。やがて我々が知識は主観的・客観的に形成されるものであるといおうとするのも、根本においてはそのためである。
二 模写と構成
知識は主体と客体との関係において成立するが、そのいかなる関係において成立するであろうか。普通の考え方はすでに触れた模写説である。模写説は人間の自然的な世界観に一致し、そこに強味をもっている。それは、我々の心がその外にある存在を模写することが認識であり、真理は物と観念との一致であると考える。模写説は心の外に物があると素樸に考える素樸実在論であり、かように考えることは独断であるといわれている。けれどもすでに論じたように、模写説は超越的真理概念をとり、客観が超越的なもの、我々から独立なものであることによって知識は成立すると考える点で、正しい動機を含んでいる。しかしそれは翻って、我々に対する客観の超越は我々における主体への超越によって可能になるということを考えない点で、独断的であるといわねばならぬ。
普通に模写説は我々の心が鏡の如く物を写すと考えると理解されている。仮に我々の心が鏡の如きものであるとしても、この鏡の性質が問題であろう。鏡は一般に物を写し得る性質をもっているにしても、その鏡が曇っていたり、歪んでいたりすることもあり得る。もしそれが曇っているとすれば、或いは歪んでいるとすれば、そしてその歪みが個人々々で違っているとすれば、真理に達することはできない。そこで模写説においても、我々の心の性質を吟味することが必要になってくる。事実、ロックやヒュームは人間精神の本性について研究したのであって、かような批判的研究のために、認識論は彼等に始まるともいわれるのである。これに対し、我々の心の能力を吟味しないで、我々の心は無制限に認識し得るものと考えるのは、独断論と見られている。
ところで我々の心は鏡の如きものに比することができぬ。我々の心は自覚的であるが、鏡はそうではない。我々の心は自己反省的である。しかるに鏡は、そこに映る影が果して物を正しく写しているかどうか、反省することがない。鏡が単に受動的或いは受容的であるに反し、認識の主体は能動的でなければならぬ。知ることは選択することである。認識は模写であるとしても、与えられた一切のものを模写することは不可能であり、たとい可能であるとしても無意味であろう。認識するとは、与えられたもののうち、本質的なものと非本質的なものとを区別し、選択することであって、これはすでに主体の能動性に属している。認識は模写であるという場合、物が我々に対して自己の本質的なものをつねに直接に現わしているということがなければならぬ。しかるにその保証は存在するであろうか。もし現象と本質とが直接に同じであるとすれば、一切の科学は不要であろう。認識するとはむしろ、我々の心が物の与えられた表象に働きかけ、これによって物の本質を顕わにするということでなければならない。言い換えると、我々の心が存在を模写するにしても、受動的な直観においてでなく、その加工によって生ずる思惟の生産物においてでなければならぬ。即ち摸写が与えられたものをただ受動的に写すことを意味する限り、模写説の成立する余地はない。我々がそれを摸写するといわれるものは、既に与えられているものでなければならぬ。しかるに知識において見ることは予見することである。見ることが予見することであるによって、知識は、本質的に未来に関係付けられている行為に役立つことができる。ところで予見されるものは未だ与えられていないものであるから、これを模写するとはいわれないであろう。かようにして認識が模写であるということは、認識の究極の意味に関わり、認識はその究極の意味において存在と一致しなければならぬということになるであろう。尤もこの場合、模写ということは文字通りには考えられない。そこには思惟の加工があるのであるから。認識するとは加工することである。しかし思惟のいかなる加工物も、その究極の意味においては存在と一致することを要求されており、従って存在に制約されている限り、認識には模写的意味があるといい得るであろう。認識における思惟の活動は無制約でなく、直観に制約されている。直観に制約されるというのは存在に制約されることであるとすれば、直観には物を写すという意味がなければならぬであろう。模写説においては直観が、感覚の如きもの、もしくは何等かの知的な直観が、重んぜられるのがつねである。デカルトは知覚に、感官による知覚と知性からの知覚とを区別したが、経験論的ないし実証論的立場における模写説は前者を、合理論的立場におけるそれは後者を、認識の根柢においているといえるであろう。
模写説は、認識はつねに客観に制約されると考える点で、真理を含んでいる。客観に全く制約されない認識というものはない。しかるに物を写すには一定の条件が必要である。我々は光の中において初めて物を写し得ると考えられるであろう。いわゆる「光の形而上学」は古くから意識的に或いは無意識的に認識理論の基礎となっている。プラトンは善のイデアを太陽と比較し、それは認識される対象に真理を賦与し、認識する主観に認識能力を賦与すると考えた。光の形而上学はキリスト教の影響のもとに発展し、認識は神の光に照明されることであるという思想となったが、かような超越的なものを排した場合にも、デカルトに見られる如く、いわゆる自然的光によって明晰で判明な知覚は与えられ、この直観的明証が真理の基準とされたのである。感性知覚の如きものにも物を写すという意味がある以上、それは単に盲目的なものとは考えられないであろう。かくの如く客体がそのものとして顕わになるということは、さきに述べたところに依ると、主体の超越によって可能になる。主体の超越がなければ認識が模写であるということも考えられない、模写説も根源的に主体的条件のもとに立っている。
しかし前から論じてきた如く、認識が模写であるということには種々の困難がある。その困難は、我々の観念は物の模写でなくて記号であると考えることによって除かれ得るように思われる。特に知識はただその究極の意味において存在の模写であると考えてゆけば、それは存在の摸写でなくて記号であると考えて好いであろう。模写説においても、ロックの場合の如く、感覚はしばしば物の代表と見られている。代表ということを一歩進めると記号である。記号は模写の意味を離れた代表である。かようにして知識は模写であるという説に対して、知識は記号であるという記号説がある。模写説が常識的世界観に符合するところに強味をもっているのに対して、記号説は科学的世界像に符合するところに長所をもっている。それに相応して模写説と記号説との間には、知識の見方についてのみでなく、存在の見方についても相違がある。記号において表わされるのは物であるよりも物の関係である。そして近代科学の特色は、物を物としてそれだけに研究するのでなく、物と物との関係を研究すること、或いはむしろ物を関係において研究することにある。近代科学は物概念において思惟するのでなく、関係概念において思惟するのである。古代的思惟においては、物といわれる実体があって、関係はそれに附帯するものと考えられた。しかるに近代科学においては、物は関係に分解され、関係から物が構成される、関係は法則として現わされ、物は諸関係の網の結び目の如く考えられる。物の知識は模写でなければならぬとしても、関係の知識、法則の知識は模写でなく、むしろ記号であるといわれるであろう。概念、数、公式等はそのような記号である。
しかしながら知識は記号であるとしても、記号は何物かの記号でなければならず、記号されたものに対する関係を離れて記号は記号の意味をもつことができず、ましてその記号が知識の意味をもつことは不可能であろう。物理の法則が数式をもって表わされるにしても、物理学は数学に解消されるのでなく、その数式の物理的意味が問題である。記号は記号としていかに任意のものであり得るにしても、その内実の意味においては客観に制約されているのでなければ知識であり得ない。その客観からの制約を広く知識の模写的意味と称するならば、知識はつねに何等か模写的意味を含まねばならぬ。
科学は現象を説明するのでなく記述するのみであるという説は、知識が記号であるという説に近く立っている。知識が記号であるとすれば、それは現象を説明するのでなく記述するに過ぎないということになるであろう。キルヒホフの言葉に依ると、自然科学の任務は、自然現象をできるだけ完全に、できるだけ簡単に記述することである。かような場合、認識の目的は最も経済的に思惟することにある。科学は最小限の思惟消費をもってできるだけ完全に事実を記述することを目的とする、とマッハはいっている。マッハやアヴェナリウスに依ると、概念、公式、方法、原理等は、できるだけ勢力を節約して経済的に環境に適応することを可能にするものであり、その価値は思惟経済上の価値によって決定される。思惟経済説は、有用なものが真理であり、真理の標準は有用性にあるとする実用主義(プラグマティズム)の一種である。科学が概念構成によって、また法則の発見によって、多様な現象を包括し、要約し、人間の勢力を節約させるという思惟経済上の価値をもっているということは事実である。けれども単に有用性の見地から考える場合、知識は相対的なものになってしまわねばならぬであろう。知識は有用であるから真理であるのでなく、真理であるから有用であるのである。「人間の思惟は客観的真理を正しく模写するとき、経済的である」。「認識は、客観的な、人間から独立な真埋を反映するときにのみ、生物学的に有用であり、人間の行動にとって、生命の保存にとって、種族の保存にとって有用であり得るのである」、と唯物論者も模写説の立場からいっている。
尤も、記号説も或る正しいものを含んでいる。知識は単なる模写でなく、何等か記号的な或いは象徴的な意味をもっている。知識は一般に言葉において表現されるが、そのことが知識にとって偶然的な、外面的なことでないとすれば、知識は本質的に何等か記号的な或いは象徴的な意味をもっているのでなければならぬ。数学の如きも物理学にとっての言葉と見られ得るであろう。思惟と言葉とは不可分のものであって、言葉に表現されない知識は知識でないということもできる。認識もまた人間の形成作用、表現作用のひとつである。知識を象徴的なものと見ることは、知識を主観的なものにしてしまうことではない、単に主観的なものは象徴的とはいわれない。象徴とは主観的なものと客観的なものとの統一であり、知識も主体と客体との関係から成立するものとしてかような性質のものであると考えられるのである。もちろん、知識が象徴的であるというのは、芸術が象徴的であるというのと同じではない。しかし一方知識においても、自然科学から歴史科学、更に哲学に至るに従って一層象徴的なものになるといい得ると共に、他方芸術においても、フィードレルの考えたようにその目的は美であるよりも真理であるともいい得るのである。象徴的なものは表現的なものである。真理と言葉(ロゴス)とが同じに考えられたように、真理とは表現的なものである。表現的なものは単に主観的なものでなく、却って超越的意味を含むものである。かように表現的なものとして真理は我々に呼び掛けるのである。知識は言葉において表現されることによって主体から離れた独立なもの、公共的なものとなり、知識も文化に属している。知識は単に我のものでも単に汝のものでもなく、公共的なものとして、客観的なものでなければならぬ。
真理は対象と観念との一致であると考えるのは古い伝統である。これは模写説の主張であるのみでなく、カントの如きもこれを認めている。彼にとっての問題は、いかにしてそのような一致に達し得るかということであった。その場合、模写説においては、我々の認識は対象に従わねばならぬと考えられる。しかるにカントに依ると、我々の認識が対象に従うのでなく、逆に、対象が我々の認識に従うことによって、その一致は可能になるのである。これがカントのコペルニクス的転廻と称せられるものであって、あたかもコペルニクスによって天動説が地動説に転換されたように、それまで客観を中心としていた認識論が主観を中心とすることになったのである。模写説が客観主義であるに反して、カント主義は主観主義である。しかしそこにはまた真理概念の転換がいわば隠されて横たわっていることを指摘することができるであろう。模写説においては、真理は第一次的には存在に属し、知識の真理はこれに関係付けられることによって第二次的に真理であると考えるのが普通であり、そうすればそこに認められる原型的と模像的との関係を模写の関係と考えることもあながち不当とはいわれないであろう。しかるにカント主義においては、真埋はひとえに知識の真理と見られているのである。
カントのコペルニクス的転廻の意味は誤解されてはならない。それは、真理は物と観念との一致であるという真理概念を破棄しようとするのでなく、却ってその一致はいかにして可能であるかを明かにしようとするのである。その一致は、我々の認識が対象に従わねばならぬとするときには保証されず、逆に、対象が我々の認識に従わねばならぬとするときに保証されると主張するのである。そしてカント自身がいっているところでは、この考え方は近代科学の方法に相応するものである。近代科学の最も重要な方法は実験である。学問の方法として古代においてソクラテスが概念を発見したのに対して、近世においてリオナルド・ダ・ヴィンチは実験を発見した。実験は単なる経験と異っている。経験は我々が対象から触れられることとして受動的なもの、模写的なものと見られるに反して、実験においては我々は能動的であり、構成的である。実験において自然科学者はあらかじめ一定の観念をもって臨み、自然を強要して彼の問に答えさせる。実験において経験は単に与えられたものでなく、実験者の観念によって構成されたものであり、経験は実験者の観念に従うのである。経験を構成することによって経験するというのが実験である。かような事情に相応して、カントは、主観は対象を構成することによって対象を認識すると考えたのである。我々はこれを模写説に対して構成説と呼ぶことができるであろう。
カントに依ると、知識は感覚に与えられたもののうちに統一がもたらされるところに成立する。感覚に与えられたものは多様なものであり、知識の内容をなすものである。しかし内容だけでは統一がなく、知識とはならぬ。知識が成立するためには、内容に形式が加わらねばならず、知識はすべて内容と形式とから成っている。感覚は物そのものに触発されて生ずるものであり、物そのものに制約されている。これに反して内容を統一する形式は主観に属し、主観の綜合の形式である。認識は感覚に与えられた多様なものを主観が自己の形式によって統一するところに成立するのである。「我々が直観の多様なもののうちに綜合的統一を作り出したとき、我々は対象を認識する」、とカントはいっている。認識の対象は主観にとって与えられたものでなく、却って主観の構成するものである。例えば、この赤い鉛筆である、それは感覚に与えられたものを主観が実体或いは物(鉛筆)とその属性(赤い)という形式によって統一したものである。実体と属性というのは主観の綜合の形式であり、範疇と呼ばれている。また例えば、雨が降ったので地面が濡れたという現象の因果関係を認識する場合、我々は直観に与えられたものを原因(雨が降る)と結果(地面が濡れる)という形式によって統一したのである。因果概念も主観の統一の形式であり、範疇に属している。かようにして我々が対象において認識するものは我々が対象のうちへ移し入れたものである。我々の認識が対象と一致するのは、対象が主観の構成したものであるためである。しかるに認識は普遍妥当性をもたねばならぬ故に、主観の統一は普遍的で必然的な統一でなければならぬ。従って主観は個人的な我であり得ず、超個人的な我でなければならぬ。かような超個人的な主観をカントは意識一般と称した。認識は意識一般の綜合的統一によって生ずるのである。
ところで意識一般というものは現実の人間の意識でなく、これに対しては単に形式的な意味をもつに過ぎぬといわれるであろう。それは心理的なものでなく、どこまでも論理的に考えらるべきものであり、かようにして意識一般とは表象の普遍的で必然的な結合の規則にほかならないと考えられる。しかしながら単に形式的なものは働くことができぬ、働くものは現実的なものでなければならぬ。現実的なものは世界のうちにあるのでなければならぬ。しかるにカントの主観は世界を構成するものであるが、世界は客観として主観に対しておかれ、従って主観そのものは世界のうちに入っていないことになる。現実の人間は世界のうちにいて、そこで働き、そこで考えるのであって、認識にしてもかくの如き人間の活動にほかならぬ。もとより人間にどこか超個人的なところがなければ知識は可能でないであろう。けれどもこの超個人性は単に形式的に理解さるべきでなく、却って現実の人間における主体的超越として現実的に理解されねばならぬ。人間が超越的であるというのは、世界の外にあるということではない、それは却って現実の世界が単に客観としての世界とは考えられないということを意味している。カントの考えた世界は客観としての世界に過ぎなかった。そのことは彼の問題としたのが主として自然科学的世界であって、歴史的・社会的実在でなかったということにも関係しているであろう。模写説に対する構成説の特色は、主観の能動性を強調するところにある。主観は対象を構成することによって対象を認識すると主張されるのである。その主観の能動性の強調は、近代科学の根柢には自然に対する支配の意志があるといわれることとも繋っているであろう。そこでは自然は単に見られるものでなく、これに働きかけ、これを変化すべきものであった。
いずれにしても認識に構成的なところがあるのは確かである。科学の方法である実験がまさにそのことを示している。しかしながら知識は単に主観的なものでなく、客観的なものとして、客観に制約されている。そこに直観の問題があるのであって、カントも知識の内容は直観から与えられると考えた。感覚は主観が物そのものから触発されて生じ、思惟が自発的であるに反して、直観は受容的である。認識の形式は主観に属するが、その内容においては客観に制約されるのである。「認識の形式は内容的客観的真理を認識のために形作るに決して十分でない」、とカントはいっている。かようにして知識が客観に制約される限り、知識には模写的意味がなければならぬ。カントが直観の形式(空間と時間)と思惟の形式即ち範疇とを区別したのもそのためである、と解釈することができる。彼の認識論において感覚の根源として物そのもの、いわゆる物自体が残されているのも偶然ではないであろう。尤も、主観の能動性を絶対的に考える主観主義の立場にとっては、主観から独立に物自体の存在を許すことは不徹底であるといわねばならぬであろう。そこでフィヒテは、感覚は自我がその抵抗としてみずから定立するものと考えた。自我は本質的に実践的であり、実践は抵抗に打克ってゆくことであり、抵抗なくして自我は実践的であり得ない故に、自我は自己に対する抵抗として感覚を定立するというのである。また思惟の能動性のうちに論理主義の徹底を求めようとする新カント派のコーヘンは、思惟に与えられたものは課題として与えられたものであり、感覚も思惟の原理に従わねばならぬと考えた。しかしながらかようにして主観の能動性は徹底されるにしても、主観が万能となることによって存在は却って観念になってしまわねばならぬであろう。フィヒテの立場は人間を無限なものとし、神の立場におくことである。これに反し、カントが感性を受容的なものと考えたのは、人間の有限性を認めたことであるといえるであろう。人間が無限なものであるならば、我々の思惟はカントのいわゆる直観的悟性もしくは知的直観であることができ、認識の形式と共に内容をもみずから生産することができるであろう。フィヒテはかような立場に立った。しかるにカントに依ると、我々の悟性は原型的知性でなくて模像的知性であり、その内容をみずから生産することができぬ。カントが感性を受容的なものと考えたのは、認識に模写的意味を認めたことであるといえるが、一般に模写説は人間の有限性の理解の上に立っている。人間が有限なものであるとすれば、存在と知識との関係は模写的であると考えられるであろう。もとより人間は単に有限なものではない。人間が真理を認識し得るというのは単に有限なものではないからである。真理はむしろ人間をその有限性から解放するものである。人間は有限であると同時に無限である。
すでにいったように、知識の客観性は、形式主義者の考える如く単に表象の普遍妥当的な結合を意味するに止まらないで、知識が客観に関係付けられていることを意味している。そこには客観の超越がなければならぬ。しかるに物が客観として超越的であるということは同時に我々が主体として超越的であるということである。超越性を離れて客観性はなく、また超越性を離れて主観性はない。客体の超越と主体の超越という二重の超越によって認識は可能になるのであり、それは同時に行為の可能になる条件である。意識の外に物があると考えるのは素樸な見方であるというのは、存在するとは意識に与えられることであると考える観念論の偏見に過ぎず、かような偏見は物と我々との関係を主として知識の立場から見てゆくことに関係している。行為の立場において主体といわれるのは単なる意識でなく、身体を具えた自己である。我々自身、いかに特殊なものであるにしても、世界における存在の一つにほかならない。意識の外に存在を認めるか否かが唯物論と観念論とを区別する基準であるとエンゲルスはいったが、かくの如く考える場合、唯物論は観念論と同じように知識の抽象的な立場に立っているのであって、自称する如く実践の立場に立っているとはいわれないであろう。行為の立場においては物は単に意識の外にあるのでなく、却って身体の外にあるのでなければならぬ。認識も世界における存在と存在との関係である。我々と物との基本的な関係は行為の関係であって、認識の問題も行為の立場から捉えられねばならぬ。
認識は一方主観から規定されると共に他方客観から規定されている。それが主観から規定される限りにおいて認識は構成的であり、それが客観から規定される限りにおいて認識は模写的であるということができる。認識は模写的であると同時に構成的であり、模写と構成との統一である。かように対立するものの統一として認識は形成であるといわれるであろう。行為の立場において見るとき、認識もまたひとつの形成作用である。ここに形成説と名付けようと欲するものは、構成説と模写説との統一であり、主観主義と客観主義との統一である。それが何を意味するかが、次に確かめられねばならぬ。