ちょうどこの十一月二十日が歿後二十五年にあたったトルストイは、その芸術論の中で、世界文学の諸作品を倫理の立場から、彼自身が理解したキリスト教的倫理の立場から、激しい言葉をもって批評した。求道者トルストイの人道主義的情熱には我々の心を強く打つものがある。しかし多くの人々は彼のそのような芸術批評の立場には同意しないであろう。倫理は芸術にとって外在的であり、このものから作品を評価することは正しくないと考えられる。トルストイにおいて作品の倫理的批評が何を意味したかは今私の問題でないが、ともかくかように作品を倫理的に評価するということは彼の場合に限られず、むしろ一般の読者が作品に対するとき極めて普通に行われていることである。
私はここでいわゆる外在批評、内在批評の問題に立入ることができぬ。いずれにしても、作品は一箇の独立の生命を有するものとして社会のうちに産れ落ちる。それは表現的なものとして読者に働き掛け、一定の仕方で彼等に作用する。この関係はある意味において人と人との行為的関係に異ならない、人間そのものも表現的なものであり、表現的なものとして他の人間に働き掛けるのである。もし後の関係、即ち人と人との関係を倫理的というならば、前の関係、即ち作品と読者との関係もまた倫理的と考えることができる。実際、或る作品に出会うことは我々生涯にとって一人の人間に出会うより時には重大な関係をもっている。トルストイは、その芸術論の中で、芸術の意味は人と人とを結合することにあると述べたが、このように作用するとき作品が全くひとつの倫理的力であることはいうまでもない。
かくて作品の倫理性はまず、それが歴史的世界のうちに産れ落ち、この世界において働く一箇の独立の生命を有する歴史的物であるということから考えられねばならぬ。
歴史的世界はドロイセンのいったように「倫理的世界」であって、この世界において芸術もひとつの倫理的力である。歴史的世界は行為の世界として本来倫理的であるが、同時にそれはディルタイ以来よくいわれるように表現の世界である。歴史的なものは表現的なものであり、また歴史的行為はすべて表現的行為の意味をもっている。我々の行為は表現的なものに対することによって喚び起され、表現的なものによって媒介される。芸術作品は表現的なものとして働く人と人とを媒介するものであり、トルストイのいったように人と人とを結合する。
作品の倫理性は根本においてはかかる見地から、繰返していえば、作品がつねにただ歴史的世界のうちに産れ落ち、しかもこの世界において働くものであるということ、そして作品が表現的なものとしてその一員である歴史的世界が倫理的世界であるということから理解されることが重要である。さもなければ作品の倫理性を問題にすることは、芸術にとって、しかし倫理にとっても外面的な事柄でしかない道学者的談義となってしまうであろう。倫理の問題を通俗倫理の修養論と考えてはならぬ。
そこで次に創作作用の立場から見るとき、作品と倫理との間には普通に考えられるよりも遥かに密接な関係が認められるであろう。出来上った作品を単に美的に享受する立場からいえば、倫理は作品にとって外在的なものと考えるほかないにしても、作品が生産される過程から見れば、倫理はむしろ作家の創作活動の一つの内面的な動力原理である。従って作品を倫理的に批評するということは、単に作品の心理的効果を考えることとは異り、作品の生成の根柢を突詰めることでなければならぬ。作品をただ美的に評価するというだけでは、作家の秘密に達することは不可能であろう。却って我々は批評のうち作家の秘密を深く捉えたものが多くは倫理的批評であることを見出すのである。
小説の構成において人物は重要な位置を占めているであろう。しかるに倫理なくして作家は人物を作り得るであろうか。倫理なくして作家は人物を働かせ一の人物と他の人物とを関係させ得るであろうか。倫理を意味するエートスという語がもと性格を意味するように、倫理は人間を内から作っているものである。人と人との関係する行為の世界は倫理的世界である。小説的世界といっても、人間がそのうちにおいて生れ、そして働く世界であるとすれば、倫理は小説の構成にとって内面的な原理であるべきはずである。また作家は性格批評とか人間批評とかいうものを行うことなしには人物を描くこともできないであろう。しかるにそのような性格批評や人間批評には、特別にかかる研究に関心した思想家、文学者がフランスではモラリストと呼ばれている如く、つねに倫理的なところがある。如何なる作家もモラリスト即ち人性批評家の要素をもっている。モラリストの研究は今日いう人間学の如きものであるが、如何なる作品もかかる人間学的なものを含んでおり、それは同時に倫理的なものである。
ところで作品は芸術的活動において作られるものであるように、我々人間の存在もすべて表現的行為の意味を有する行為において作られるものである。作家の人間というものも作品と別個に存在するのでなく彼の芸術的活動そのものにおいて作られるものであり、だからこそ彼の人間は彼の作品のうちにおのずから表現されている。同じように作家の倫理といっても、作品において作られる人物と別個に存在するものでなく、作品と内面的な関係にあるべきものと考えられねばならぬ。
私は現在我国の多くの作家にとって恐らく最も深い苦悶は、彼等にとって確立された倫理がないということではないかと思う。倫理が確立しておれば、人物を作ること、その行動を構成することも容易であろう。スケールの大きな小説が出来ないといわれるのも、倫理が確立されていないことに原因が存するのではなかろうか。今日の作家の困難は、旧い倫理はもはや用をなさず、しかも新しい倫理が社会的にも作家自身においても未だ確立されていないところにあると思われる。
作品の倫理性に関連して考うべき第三の点は、文学の通俗性の問題である。本年の文壇においてもしばしば論ぜられた文学の通俗性の要求は、作家にとって倫理が確立されていないことから生ずる苦悶の一つの現われであると見られ得る。文学の通俗性は倫理の問題を除いて考えられない。通俗性のある作品とは倫理をもった作品である。このことはいわゆる通俗文学乃至大衆文学を見ればよくわかる。漱石などが或る通俗性をもっているのも、その作品の倫理性によるであろう。大衆文学と純文学との差異は、一方が倫理的であるに反し他方は倫理と没交渉であるという風に考えらるべきでなく、その根柢とする倫理の種類の相違に、或いは倫理に対する態度の相違に求められねばならぬ。
大衆文学は通俗文学として倫理的である。それはしばしば勧善懲悪の文学である。この種の文学においては、いくつかの徳目また不徳目が前提され、それを基礎として人物が構成され、従ってその人物は多く類型化されている。馬琴の八犬伝の如きは模範的な場合であろう。かように徳目が挙げられ得るのは、その倫理が、あることをせよ、あることをするなと命令する諸格率から形作られている倫理である故である。通俗倫理はかくの如き格率的倫理であって、大衆文学の通俗性はその倫理が通俗倫理であることに基づいている。
純文学はもちろんかような通俗倫理を根柢とすることができず、むしろそれに対して批判的反抗的であるのがつねである。殊に今日の如く社会の危機に遭遇するとき、従来習慣的になっていた倫理も動揺する。大衆文学的通俗性に満足しない作家は新しい倫理を求めなければならぬ。危機の文学とか不安の文学とか叫ばれるものは、かくて倫理の探求ということを重要な特色としている。そこでは格率的に固定された倫理が外に見出されないところから、倫理は勢い自己のうちに、主観性もしくは内面性のうちに求められる。しかしながら倫理は、ヘーゲルも論じたように、主観的倫理に留まる限り抽象的であり、客観的倫理にまで発展しなければならぬ。行為するとは内面から脱け出ることであり、またすべての行為は本来社会的である。従って倫理的な不安の文学においても真の倫理は発見されておらず、だからまさに不安であった。
これに対してマルクス主義の文学は却って倫理的であり、その意味でまた通俗性をもっているともいえる。この文学が倫理的でないと考えてはならぬ。それがかつて善玉悪玉の文学、勧善懲悪の文学の如きに堕していると非難されたのも、その作品の倫理性を示すものである。しかし、もしこの非難の意味する如く、そこに人物の類型化があるとすれば、倫理は却って文学にとって外面的なものとなり、倫理の本質的な一面であるべき主体的真実性を欠くことになるであろう。かくて横光氏のいわゆる純粋小説で通俗小説であるような作品の要求は、倫理に関していえば、内面的にして同時に社会的な倫理に対する要求でなければならず、かかる倫理の確立は作品の生産の条件であろう。
(一九三五年一二月)