人生論ノート (三木 清)

秩序について

例えば初めて来た家政婦に自分の書斎の掃除をまかせるとする。彼女は机の上やまわりに乱雑に置かれた本や書類や文房具などを整頓せいとんしてきれいに並べるであろう。そして彼女は満足する。ところで今私が机に向って仕事をしようとする場合、私は何か整わないもの、落着かないものを感じ、一時間もたたないうちに、せっかくきちんと整頓されているものをひっくり返し、元のように乱雑にしてしまうであろう。

これは秩序というものが何であるかを示す一つの単純な場合である。外見上極めてよく整理されているもの必ずしも秩序のあるものでなく、むしろ一見無秩序に見えるところにかえって秩序が存在するのである。この場合秩序というものが、心の秩序に関係していることは明かである。どのような外的秩序も心の秩序に合致しない限り真の秩序ではない。心の秩序を度外視してどのように外面の秩序を整えたにしても空疎くうそである。

秩序は生命あらしめる原理である。そこにはつねに温かさがなければならぬ。ひとは温かさによって生命の存在を感知する。

また秩序は充実させるものでなければならぬ。単に切り捨てたり取り払ったりするだけで秩序ができるものではない。虚無は明かに秩序とは反対のものである。

しかし秩序はつねに経済的なものである。最少の費用で最大の効用を挙げるという経済の原則は秩序の原則でもある。これは極めて手近かな事実によって証明される。節約――普通の経済的な意味での――は秩序尊重の一つの形式である。この場合節約は大きな教養であるのみでなく、宗教的な敬虔けいけんにさえ近づくであろう。逆に言うと、節約は秩序崇拝の一つの形式であるという意味においてのみ倫理的な意味をもっている。無秩序は多くの場合浪費から来る。それは、心の秩序に関して、金銭の濫費らんぴにおいてすでにそうである。

時の利用というものは秩序の愛の現われである。

最少の費用で最大の効用を挙げるという経済の法則が同時に心の秩序の法則でもあるということは、この経済の法則が実は美学の法則でもあるからである。

美学の法則は政治上の秩序に関してさえ模範的であり得る。「時代の政治的問題を美学によって解決する」というシルレルの言葉は、何よりも秩序の問題に関して妥当するであろう。

知識だけでは足りない、能力が問題である。能力は技術と言い換えることができる。秩序は、心の秩序に関しても、技術の問題である。このことが理解されるのみでなく、能力として獲得されねばならぬ。

最少の費用で最大の効用を挙げるという経済の法則は実は経済的法則であるよりも技術的法則であり、かようなものとしてそれは美学の中にも入り込むのである。

プラトンの中でソクラテスは、徳は心の秩序であるといっている。これよりも具体的で実証的な徳の規定を私は知らない。今日最も忘れられているのは徳のこのような考え方である。そして徳は心の秩序であるという定義の論証にあたってソクラテスが用いた方法は、注意すべきことに、建築術、造船術等、もろもろの技術との比論であった。これは比論以上の重要な意味をもっていることである。

心という実体性のないものについて如何いかにして技術は可能であるか、とひとはいうであろう。

現代物理学はエレクトロンの説以来物質というものから物体性を奪い去った。この説は全物質界を完全に実体性のないものにするように見える。我々は「実体」の概念を避けて、それを「作用」の概念で置き換えなければならぬといわれている。数学的に記述された物質はあらゆる日常的な親しさを失った。

不思議なことは、この物質観の変革に相応する変革が、それに何等関係もない人間の心の中で準備され、実現されたということである。現代人の心理――必ずしも現存の心理学をいわない――と現代物理学との平行を批評的に明かにすることは、新しい倫理学の出発点でなければならぬ。

知識人というのは、原始的な意味においては、物を作り得る人間のことであった。他の人間の作り得ないものを作り得る人間が知識人であった。知識人のこの原始的な意味を我々はもう一度はっきり我々の心に思い浮べることが必要であると思う。

ホメロスの英雄たちは自分で手工業を行った。エウマイオスは自分で革を截断せつだんして履物を作ったといわれ、オデュッセウスは非常に器用な大工で指物師であったように記されている。我々にとってこれは羨望せんぼうあたいすることではないであろうか。

道徳の中にも手工業的なものがある。そしてこれが道徳の基礎的なものである。

しかし困難は、今日物的技術において「道具」の技術から「機械」の技術に変化したような大きな変革が、道徳の領域においても要求されているところにある。

作ることによって知るということが大切である。これが近代科学における実証的精神であり、道徳もその意味において全く実証的でなければならぬ。

プラトンが心の秩序に相応して国家の秩序を考えたことは奇体なことではない。この構想には深い智慧ちえが含まれている。

あらゆる秩序の構想の根柢こんていには価値体系の設定がなければならぬ。しかるに今日流行の新秩序論の基礎にどのような価値体系が存在するであろうか。倫理学でさえ今日では価値体系の設定を抛擲ほうてきしてしかも狡猾こうかつにも平然としている状態である。

ニーチェが一切の価値の転換を唱えて以後、まだどのような承認された価値体系も存在しない。それ以後、新秩序の設定はつねに何等か独裁的な形をとらざるを得なかった。一切の価値の転換というニーチェの思想そのものが実は近代社会の辿たどり着いた価値のアナーキーの表現であった。近代デモクラシーは内面的にはいわゆる価値の多神論から無神論に、すなわち虚無主義に落ちてゆく危険があった。これを最も深く理解したのがニーチェであった。そしてかような虚無主義、内面的なアナーキーこそ独裁政治の地盤である。もし独裁を望まないならば、虚無主義を克服して内から立直らなければならない。しかるに今日我が国の多くのインテリゲンチャは独裁を極端に嫌いながら自分自身はどうしてもニヒリズムから脱出することができないでいる。

外的秩序は強力によっても作ることができる。しかし心の秩序はそうではない。

人格とは秩序である、自由というものも秩序である。……かようなことが理解されねばならぬ。そしてそれが理解されるとき、主観主義は不十分となり、何等か客観的なものを認めなければならなくなるであろう。近代の主観主義は秩序の思想の喪失によって虚無主義に陥った。いわゆる無の哲学も、秩序の思想、特にまた価値体系の設定なしには、その絶対主義の虚無主義と同じになる危険が大きい。

感傷について

精神が何であるかは身体によって知られる。私は動きながら喜ぶことができる、喜びは私の運動を活溌かっぱつにしさえするであろう。私は動きながら怒ることができる、怒は私の運動を激烈にしさえするであろう。しかるに感傷の場合、私は立ち停まる、少くとも静止に近い状態が私に必要であるように思われる。動き始めるやいなや、感傷はやむか、もしくは他のものに変ってゆく。ゆえに人を感傷から脱しさせようとするには、ず彼を立たせ、彼に動くことを強要するのである。かくのごときことが感傷の心理的性質そのものを示している。日本人は特別に感傷的であるということが正しいとすれば、それは我々の久しい間の生活様式に関係があると考えられないであろうか。

感傷の場合、私はすわって眺めている、ってそこまで動いてゆくのではない。いな、私はほんとには眺めてさえいないであろう。感傷は、何について感傷するにしても、結局自分自身にとどまっているのであって、物の中に入ってゆかない。批評といい、懐疑というも、物の中に入ってゆかない限り、一個の感傷に過ぎぬ。真の批評は、真の懐疑は、物の中に入ってゆくのである。

感傷は愛、憎み、悲しみ、等、他の情念から区別されてそれらと並ぶ情念の一つの種類ではない。むしろ感傷はあらゆる情念のとり得る一つの形式である。すべての情念は、最も粗野なものから最も知的なものに至るまで、感傷の形式において存在し乃至ないし作用することができる。愛も感傷となることができるし、憎みも感傷となることができる。簡単にいうと、感傷は情念の一つの普遍的な形式である。それが何か実体のないもののように思われるのも、それが情念の一つの種類でなくて一つの存在様相であるためである。

感傷はすべての情念のいわば表面にある。かようなものとしてそれはすべての情念の入口であると共に出口である。先ず後の場合が注意される。ひとつの情念はその活動をやめるとき、感傷としてあとを引き、感傷として終る。泣くことが情念をしずめることである理由もそこにある。泣くことは激しい情念の活動を感傷に変えるための手近かな手段である。しかし泣くだけでは足りないであろう。泣き崩れなければならぬ、つまり静止が必要である。ところで特に感傷的といわれる人間は、あらゆる情念にその固有の活動を与えないで、表面の入口で拡散させてしまう人間のことである。だから感傷的な人間は決して深いとはいわれないが無害な人間である。

感傷は矛盾を知らない。ひとは愛と憎みとに心が分裂するという。しかしそれが感傷になると、愛も憎みも一つに解け合う。運動は矛盾から生ずるという意味においても、感傷は動くものとは考えられないであろう。それはただ流れる、むしろただ漂う。感傷は和解の手近かな手段である。だからまたそれはしばしば宗教的な心、砕かれた心というものと混同される。我々の感傷的な心は仏教の無常観に影響されているところが少くないであろう。それだけに両者を厳格に区別することが肝要である。

感傷はただ感傷をび起す、そうでなければただ消えてゆく。

情念はその固有の力によって創造する、乃至は破壊する。しかし感傷はそうではない。情念はその固有の力によってイマジネーションを喚び起す。しかし感傷に伴うのはドゥリームでしかない。イマジネーションは創造的であり得る。しかしドゥリームはそうではない。そこには動くものと動かぬものとの間の差異があるであろう。

感傷的であることが芸術的であるかのように考えるのは、一つの感傷でしかない。感傷的であることが宗教的であるかのように考える者に至っては、更にそれ以上感傷的であるといわねばならぬ。宗教はもとより、芸術も、感傷からの脱出である。

瞑想めいそうは多くの場合感傷から出てくる、少くとも感傷を伴い、あるいは感傷に変ってゆく。思索する者は感傷の誘惑に負けてはならぬ。

感傷は趣味になることができ、またしばしばそうなっている。感傷はそのように甘味なものであり、誘惑的である。瞑想が趣味になるのは、それが感傷的になるためである。

すべての趣味と同じように、感傷は本質的にはただ過去のものの上にのみ働くのである。それは出来つつあるものに対してでなく出来上ったものに対して働くのである。すべて過ぎ去ったものは感傷的に美しい。感傷的な人間は回顧することを好む。ひとは未来について感傷することができぬ。少くとも感傷の対象であるような未来は真の未来ではない。

感傷は制作的でなくて鑑賞的である。しかし私は感傷によって何を鑑賞するのであろうか。物の中に入らないで私は物を鑑賞し得るであろうか。感傷において私は物を味っているのでなく自分自身を味っているのである。いな、正確にいうと、私は自分自身を味っているのでさえなく、ただ感傷そのものを味っているのである。

感傷は主観主義である。青年が感傷的であるのはこの時代が主観的な時期であるためである。主観主義者は、どれほど概念的或いは論理的によそおうとも、内実は感傷家でしかないことが多い。

あらゆる情念のうち喜びは感傷的になることが最も少い情念である。そこに喜びのもつ特殊な積極性がある。

感傷には個性がない、それは真の主観性ではないから。その意味で感傷は大衆的である。だから大衆文学というものは本質的に感傷的である。大衆文学の作家は過去の人物を取扱うのがつねであるのも、これに関係するであろう。彼等と純文学の作家との差異は、彼等が現代の人物を同じようにたくみに描くことができない点にある。この簡単な事柄のうちに芸術論における種々の重要な問題が含まれている。

感傷はたいていの場合マンネリズムに陥っている。

身体の外観が精神の状態と必ずしも一致しないことは、一見極めて頑丈な人間が甚だ感傷的である場合が存在することによって知られる。

旅は人を感傷的にするという。彼は動くことによって感傷的になるのであろうか。もしそうであるとすれば、私の最初の定義は間違っていることになる。だがそうではない。旅において人が感傷的になりやすいのは、むしろ彼がその日常の活動から脱け出すためであり、無為になるためである。感傷は私のウィーク・エンドである。

行動的な人間は感傷的でない。思想家は行動人としての如く思索しなければならぬ。勤勉が思想家の徳であるというのは、彼が感傷的になる誘惑の多いためである。

あらゆる物が流転るてんするのを見て感傷的になるのは、物をとらえてその中に入ることのできぬ自己を感じるためである。自己もまた流転の中にあるのを知るとき、私は単なる感傷に止まり得るであろうか。

感傷には常に何等かの虚栄がある。

仮説について

思想が何であるかは、これを生活に対して考えてみると明瞭めいりょうになるであろう。生活は事実である、どこまでも経験的なものである。それに対して思想にはつねに仮説的なところがある。仮説的なところのないような思想は思想とはいわれないであろう。思想が純粋に思想としてもっている力は仮説の力である。思想はその仮説の大いさに従って偉大である。もし思想に仮説的なところがないとすれば、如何いかにしてそれは生活から区別され得るであろうか。考えるということもそれ自身としては明かに我々の生活の一部分であって、これと別のものではない。しかるにそのものがなお生活から区別されるのは、考えるということが本質的には仮説的に考えることであるためである。

考えるということは過程的に考えることである。過程的な思考であって方法的であることができる。しかるに思考が過程的であるのは仮説的に考えるからである。すなわち仮説的な思考であって方法的であることができる。懐疑にしても方法的であるためには仮説にらねばならぬことは、デカルトの懐疑において模範的に示されている。

仮説的に考えるということは論理的に考えるということと単純に同じではない。仮説は或る意味で論理よりも根源的であり、論理はむしろそこから出てくる。論理そのものが一つの仮説であるということもできるであろう。仮説は自己自身から論理を作り出す力をさえもっている。論理よりも不確実なものから論理が出てくるのである。論理も仮説を作り出すものと考えられる限りそれ自身仮説的なものと考えられねばならぬ。

すべて確実なものは不確実なものから出てくるのであって、その逆でないということは、深く考うべきことである。つまり確実なものは与えられたものでなくて形成されるものであり、仮説はこの形成的な力である。認識は模写でなくて形成である。精神は芸術家であり、鏡ではない。

しかし思想のみが仮説的であって、人生は仮説的でないのであろうか。人生も或る仮説的なものである。それが仮説的であるのは、それが虚無につながるためである。各人はいわば一つの仮説を証明するために生れている。生きていることは、ただ生きているということを証明するためではないであろう、――そのような証明はおよそ不要である、――実に、一つの仮説を証明するためである。だから人生は実験であると考えられる。――仮説なしに実験というものはあり得ない。――もとよりそれは、何でも勝手にやってみることではなく、自分がそれを証明するために生れた固有の仮説を追求することである。

人生が仮説的なものであるとすれば、思想が人生に対して仮説的なものとして区別されるのと同じ仕方で、人生がそのものに対して仮説的なものとして区別される或るものがあるのでなければならぬ。

仮説が単に論理的なものでないことは、それが文学の思考などのうちにもあるということによって明かである。小説家の創作行動はただひとすじに彼の仮説を証明することである。人生が仮説の証明であるという意味はこれに類似している。仮説は少くともこの場合単なる思惟しいに属するのでなく、構想力に属している。それはフィクションであるということもできるであろう。仮説は不定なもの、可能的なものである。だからそれを証明することが問題である。それが不定なもの、可能的なものであるというのは単に論理的意味においてでなく、むしろ存在論的意味においてである。言い換えると、それは人間の存在が虚無を条件とするのみでなく虚無と混合されていることを意味している。従って仮説の証明が創造的形成でなければならぬことは小説におけると同じである。人生において実験というのはかような形成をいうのである。

常識を思想から区別する最も重要な特徴は、常識には仮説的なところがないということである。

思想は仮説でなくて信念でなければならぬといわれるかも知れない。しかるに思想が信念でなければならぬということこそ、思想が仮説であることを示すものである。常識の場合にはことさら信仰は要らない、常識には仮説的なところがないからである。常識は既に或る信仰である、これに反して思想は信念にならねばならぬ。

すべての思想らしい思想はつねに極端なところをもっている。なぜならそれは仮説の追求であるから。これに対して常識のもっている大きな徳は中庸ということである。しかるに真の思想は行動に移すと生きるか死ぬるかといった性質をもっている。思想のこの危険な性質は、行動人は理解しているが、思想に従事する者においてはかえって忘れられている。ただ偉大な思想家のみはそのことを行動人よりも深く知っている。ソクラテスが従容しょうようとして死に就いたのはそのためであったであろう。

誤解を受けることが思想家のつねの運命のようになっているのは、世の中には彼の思想が一つの仮説であることを理解する者が少いためである。しかしその罪の一半はたいていの場合思想家自身にもあるのであって、彼自身その思想が仮説的なものであることを忘れるのである。それは彼の怠惰に依ることが多い。探求の続いている限り思想の仮説的性質は絶えずあらわである。

折衷主義が思想として無力であるのは、そこでは仮説の純粋さが失われるためである。それは好むと好まないとにかかわらず常識に近づく、常識には仮説的なところがない。

仮説という思想は近代科学のもたらした恐らく最大の思想である。近代科学の実証性に対する誤解は、そのなかに含まれる仮説の精神を全く見逃したか、正しく把握しなかったところから生じた。かようにして実証主義は虚無主義に陥らねばならなかった。仮説の精神を知らないならば、実証主義は虚無主義に落ちてゆくのほかない。

偽善について

「人間は生れつき嘘吐うそつきである」、とラ・ブリュイエールはいった。「真理は単純であり、そして人間はけばけばしいこと、飾り立てることを好む。真理は人間に属しない、それはいわば出来上って、そのあらゆる完全性において、天から来る。そして人間は自分自身の作品、作り事とお伽噺とぎばなしのほか愛しない。」人間が生れつき嘘吐きであるというのは、虚栄が彼の存在の一般的性質であるためである。そこで彼はけばけばしいこと、飾り立てることを好む。虚栄はその実体に従っていうと虚無である。だから人間は作り事やお伽噺を作るのであり、そのような自分自身の作品を愛するのである。真理は人間の仕事ではない。それは出来上って、そのあらゆる完全性において、人間とは関係なく、そこにあるものである。

その本性において虚栄的である人間は偽善的である。真理とは別に善があるのでないように、虚栄とは別に偽善があるのではない。善が真理と一つのものであることを理解した者であって偽善が何であるかを理解することができる。虚栄が人生に若干の効用をもっているように、偽善も人生に若干の効用をもっている。偽善が虚栄と本質的に同じものであることを理解しない者は、偽善に対する反感からと称して自分自身ひとつの虚栄のとりこになっている。偽善に対して偽悪という妙な言葉で呼ばれるものがそれである。その偽悪というものこそ明かに人間のおぼつかない虚栄ではないか。そのものは偽善が虚栄にほかならぬことを他面から明瞭めいりょうにするのである。かような偽悪家の特徴は感傷的であるということである。かつて私は偽悪家と称する者で感傷家でないような人間を見たことがない。偽善に反感を感じる彼のモラルもセンチメンタリズムでしかない。偽悪家はとかく自分で想像しているように深い人間ではない。その彼の想像がまた一つのセンチメンタリズムに属している。もし彼が無害な人間であるとしたなら、それは一般に感傷的な人間は深くはないが無害であるということにるのである。

ひとはただ他の人間に対する関係においてのみ偽善的になると考えるのは間違っている。偽善は虚栄であり、虚栄の実体は虚無である、そして虚無は人間の存在そのものである。あらゆる徳が本来自己におけるものであるように、あらゆる悪徳もまた本来自己におけるものである。その自己を忘れて、ただ他の人間、社会をのみ相手に考えるところから偽善者というものが生じる。それだから道徳の社会性というがごときことが力説されるようになって以来、いかに多くの偽善者が生じたであろうか。あるいはむしろ道徳の社会性というが如き理論は現代に特徴的な偽善をかばうためにことさら述べられているようにさえ見えるのである。

我々の誰が偽善的でないであろうか。虚栄は人間の存在の一般的性質である。偽善者が恐しいのは、彼が偽善的であるためであるというよりも、彼が意識的な人間であるためである。しかし彼が意識しているのは自己でなく、虚無でもなく、ただ他の人間、社会というものである。

虚無に根差す人生はフィクショナルなものである。人間の道徳もまたフィクショナルなものである。それだから偽善も存在し得るのであり、若干の効用をさえもち得るのである。しかるにフィクショナルなものは、それにとどまることなく、その実在性が証明されねばならぬ。偽善者とそうでない人間との区別は、その証明の誠意と熱情をもっているかどうかにある。人生において証明するということは形成することであり、形成するということは内部と外部とが一つになることである。ところが偽善者にあっては内部と外部とが別である。偽善者には創造というものがない。

虚言の存在することが可能であるのは、あらゆる表現が真理として受取られる性質をそれ自身においてもっているためである。ものは表現されると我々に無関係になる。表現というものはそのように恐しいものである。恋をする人間は言葉というもの、表現というものが如何いかに恐しいものであるかを考えておののいている。今日どれだけの著作家が表現の恐しさをほんとに理解しているか。

絶えず他の人を相手に意識している偽善者が阿諛あゆ的でないことはまれである。偽善が他の人を破滅させるのは、偽善そのものによってよりも、そのうちに含まれる阿諛によってである。偽善者とそうでない者との区別は、阿諛的であるかどうかにあるということができるであろう。ひとにおもねることは間違ったことを言うよりもはるかに悪い。後者は他人を腐敗させはしないが、前者は他人を腐敗させ、その心をかどわかして真理の認識に対して無能力にするのである。嘘吐くことでさえもが阿ることよりも道徳的にまさっている。虚言の害でさえもが主としてそのうちに混入する阿諛に依るのである。真理は単純で率直である。しかるにその裏は千の相貌そうぼうそなえている。偽善が阿るためにとる姿もまた無限である。

多少とも権力を有する地位にある者に最も必要な徳は、阿る者と純真な人間とをひとめで識別する力である。これは小さいことではない。もし彼がこの徳をもっているなら、彼はあらゆる他の徳をもっていると認めてもいであろう。

「善く隠れる者は善く生きる」という言葉には、生活における深い智慧ちえが含まれている。隠れるというのは偽善でも偽悪でもない、かえって自然のままに生きることである。自然のままに生きることが隠れるということであるほど、世の中は虚栄的であるということをしっかりと見抜いて生きることである。

現代の道徳的頽廃たいはいに特徴的なことは、偽善がその頽廃の普遍的な形式であるということである。これは頽廃の新しい形式である。頽廃というのは普通に形がくずれて行くことであるが、この場合表面の形はまことによく整っている。そしてその形は決してふるいものではなく全く新しいものでさえある。しかもその形の奥には何等の生命もない、形があっても心はその形に支えられているのでなく、虚無である。これが現代の虚無主義の性格である。

著者: