「ファン」について (伊丹 万作)

私は今日までファンについてあまり考えたことがない。なぜならば第一私はファンという言葉が好きになれないのだ。

ファンという言葉が私の頭の中に刻みつけている印象は、私にとつてあまり幸福なものではない。

私は本当のファンがどういうものかを知らない。ただ私が自分の目で見てきたファンというものは不幸にも喧騒にして教養なき群衆にすぎなかつた。

私は残念ながらその人たちを尊敬する気になれなかつた。

これらの人たちを対象として仕事ができるかときかれたら私は返答に窮する。

しかし、それならば自分はいつたい何ものに見せるつもりで写真を作つているのかと反問してみる。

そこで私は努めて自分の仕事の目標を心に描こうと試みる。

しかし、どうしてもそれははつきりと浮び上つて来ないのである。

要するに、それはいわゆるファンというような具体的な存在ではないようである。

もともと私は自分のファンというものをほとんど持つていない。ファンと文通するというようなことも稀有な例に属する。

しかし、だからといつて私は自分の孤独を感じたことはない。

何千人の、あるいは何万人のファンを持つていますと人に数字を挙げて説明のできることははたして幸福だろうか。

零から何万にまで増えてきた数字は、都合によつてまた元の零に減るときがないとはいえないのである。

私は時によつて増えたり減つたりする定めなきものを相手として仕事をする気にはなれないのである。

つまりそこに一人、ここに一人と指して数えられるものは私の目標ではない。

すなわち私の目標は個体としての人間ではなく、全体としての人間性である。

だから私は直接に限られた数のファンとの交渉を持たないかわりに、間接的に無限のファンを持つているのと同じ安心を得ている。

私の持つているこの象徴的なファンは手紙などはくれないが、そのかわり増えたり減つたりは決してしない。

おせじをいつたり、暑中見舞をさしあげたりする必要はなおさらない。

一万、二万と明らかな数字をもつて現わすことは不可能であるがその大きさは無限である。

私が特定のファンを持たず、特定のファンを目標とせず、特定のファンについて何らの思考を費すことなく、しかも何不自由なくその日を送つている理由は右のとおりである。

さてここで問題を別の観点に引きおろして、あらためて見物の質としてのファンを論ずるならば、私は中途半端な、いわゆるファンはあまり感心しない。

私の経験では、軽症映画中毒患者の写真の見方よりも、平素まつたく映画に縁遠い連中の見方の方が純粋でかつ素直である。

そして、こういう連中の批評が実に端的に核心を射抜いていて驚かされることがしばしばである。あるいはまた映画を見て見て見尽した大通の見方もよい。

しかし、我々が最も啓発されるのは、いずれの方面に限らず、およそ一流を極めた人の見方や批評で、これらの人の言の全部が必ずしも肯綮に当るとはいわないがある程度までは必ず傾聴すべき滋味がある。

私の経験からいえば、その反対の場合、すなわち自分の専門外のことを批評した場合、あまりにめちやくちやなことをいう人は決してほんものではない。

少なくとも一つの道の一流は容易に他の道の一流を理解するというのが私の持論である。

さて中途半端な困りものはいわゆるファンである。もしそれ、スターのプロマイドに熱狂し、鼻紙の類に随喜する徒輩にいたつてはただ単に俳優のファンたるにすぎず、これはもはや映画のファンと称することさえ分に過ぎる。事すでに論外に属するのである。

(『ムウビイ』昭和十一年一月十四日号)